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第25話「夜空」
夏の夜は虫の声がする。
蒸し暑い空気の中で満点の星空を見上げ、藤崎は半日以上ぶりに聞こえた彼の声に視線を細め、街灯もない真っ暗な道を月明かりを頼りに歩いた。
「佐藤くん」
夜闇に愛しげな声が響く。
《大丈夫か?寝てたんじゃないの?》
「んー、もうこっちはみんな寝てる。抜け出してきた」
《ええっ》
藤崎の言葉に電話の向こうの義人はおかしそうにクスクスと笑っている。
途端に「良い夜だなあ」と思った。
3日、4日離れて会えない日ができると知ってからゼミ旅行の事を考えると、嬉しかったりそうでもなくなったりと藤崎の心は忙しかった。
けれど彼となら、こうして会えない夜も楽しくしてしまえるものだなあと電話をしながらしみじみ感じたのだ。
《お前、そう言うのサラッとやるよね》
「そうだよ。佐藤くんの為ならサラッと何でもやる」
《ふははっ、何言ってんだよ。どうだった?1日目》
「んー、楽しかったんだけどめちゃくちゃハードだったよ。影山ゼミのゼミ旅行がヤバい説はマジだった」
静温舎からあんまり離れてもまずい。
誰かが藤崎がいない事に気が付いたとき騒ぎになっても迷惑になってしまう。
藤崎は歩いてきた道を戻りつつ、それでもあまり静温舎に近付かないようにして、登り坂の途中で立ち止まった。
義人と「恋人」の会話をするなら、これ以上近付いて誰かに聞かれる訳にもいかず、視界に静温舎がある範囲で立ち止まって通話をする事にした。
《ぇえ〜、やべーな。こっちはもうずーっと楽しかった》
「俺がいないのに?」
《んはは、それはなあ、仕方ないからさあ》
「へえ。なに、会いたいのは俺だけ?」
少し口を尖らせて言った。
電話口の向こうからも微かに虫の声がしていてる。
たまに蚊の羽音が近くで聞こえては顔の周りを手で払い、虫除けスプレーをしてくるべきだったなと焦りすぎた事を後悔した。
どうしても早く義人の声が聞きたかったのだ。
義人は藤崎の言葉に口籠もり、「いや、えーと、」ともにょもにょ何か小さくつぶやいている。
暑いけれど、立ち止まっていると時折り吹いてくる風が肌を撫でて行って気持ちが良い。
湿っぽい匂いの空気も好きな感じだ。
(祭り行ったの思い出すなあ)
藤崎の実家の近くでやった夏祭りに行ったのは去年、2年生の夏休みでの事だった。
無論、実家の近くだからと滝野も光緒も里音も来て、義人と2人きりとは行かなかったけれど、あれはあれで楽しかった。
《そりゃ会いたいよ、、》
「え?」
1年前の夏休みの記憶を思い出していた最中に言われ、思わず聞き返してしまった。
《会いたいよ》
二度目の拗ねたような照れた言い方に、思わず口元が緩む。
本当に可愛いなあ、と、その場にしゃがみ込んで、我慢できないニヤついた口元を押さえた藤崎はふうー、と鼻から息を吐いた。
「お酒飲んだの?」
離れていてもこんなに「好き」と教えてくれるのは珍しい。
義人は藤崎よりもずっとシャイで、素直になれない意地っ張りで、藤崎以外からすれば可愛くないと思える面も多いのだ。
飲んでると言っていたからにはいくらアルコール嫌いでも付き合いで一杯、または1缶くらい飲んで、酔っ払っていて口が軽くなっているのかもしれない。
《ひと口も飲んでねーよ》
「ええー」
期待はしていたものの、実際に義人がシラフのまま「会いたい」と言ってくれた事が分かると思わず満面の笑みになる。
あんまりにも良い夜だった。
「じゃあ普通に今デレてくれてるの?可愛い、無理、抱きたい。セックスしたい」
《あのさあ〜〜、もう本当にやめなさいそう言うの、本当に》
「俺のこと考えてくれてた?忘れなかった?」
《わっ、忘れるわけないだろホントに馬鹿か!忘れたくてもこの辺に顔がチラつくんだよお前!》
この辺と言うのが果たしてどの辺なのかは分からないが、義人が電話に出ながら身振り手振りしているのだけは想像がつく。
寂しく思っていた夜がこんなに楽しくなるとは思っていなかった藤崎は、義人への気持ちが昂って、幸せいっぱいのため息をついてしまった。
「嬉しいなあ。ちゃんと繋がってるんだね」
嘘ではない。
義人は確かに、新幹線の中でも、昼食のときでも、寺を見て回っていたときも、藤崎の事をちゃんと思い出していちいち考えていた。
酒も飲んでいない彼がきちんと藤崎に「好きだ」と、そんな風なものを含ませた事を言うのはただ単に、彼自身もまた寂しい夜が嫌だったからだ。
《あーもお!恥ずかしいからそう言うのやめろ!》
「好きだよ」
《ッ、、ぅわ、え、》
「好きだよ。会いたい。寂しい」
《ん、、んん》
自分に代わるようにスラスラと気持ちを言葉にしてくれる藤崎に思わず息呑んで、義人は1人だけ抜けて来た晩酌会をしている京都寮の母家を振り返った。
庭の芝生の上に裸足で出てきてしまった彼に、相当飲んだらしい入山がガラス戸の向こうで手を振っている。
釣られるように他のゼミ生達にも手を振られたので振り返し、そしてひと言、ポツリと呟くようにこぼした。
「抱かれたいよ」
携帯電話を持って耳に押し当てている右手の肘を左手で摩った。
寒くはない、むしろ暑い。
けれどそれよりも、何よりも、藤崎が隣にいない夜が怖くて、寂しかった。
《ッ、佐藤くん、あの、ちょっとそれは、刺激が強過ぎ》
「え、ご、ごめん、」
《勃った》
「ええっ!?今ので!?」
電話の向こうの藤崎の声は少しくぐもって苦しそうだ。
まさか本当に勃ったのか、と心配しながら、義人は入山に寝招きされている事に気が付いた。
そろそろお開きだから、戻ってこい。
そう言う事だろう。
「藤崎、ごめん。もう戻らないと」
《明日も電話したい》
「えっ、、あ、多分うちのゼミは明日もこんな感じだから大丈夫だけど、藤崎は無理するなよ。疲れてるだろ?」
よくワガママを言う日だな、と普段の彼を思い出したが、そういえばそれなりによくワガママは言うやつだったと思い直した。
電話の向こうも、こちらの京都も、良く虫の声がする。
そういえば、ゼミ旅行前に2人でネットで見た藤崎が行く静温舎は山の中にあって、少し歩いた先にも田んぼしかなかった。
京都寮と比べて虫の声の種類が多いのはそのせいだろうか。
秋でもないのに、よく鳴いている。
《佐藤くんと話した方が癒される》
「ハイハイハイ、分かったよ。じゃあ、まあ、明日はもう少し早くにな」
《うん》
嬉しそうな藤崎の声に、義人もニコ、と笑ってしまった。
「久遠」
そして今日は、正確に言えば昨日なのだが、一度も呼んでいなかった藤崎の名前を愛しげに、優しい声で呼んだ。
《なあに、義人》
合わせたように、藤崎もいっそう優しい声色で答える。
それは堪らなく幸せで、直ぐそばにいてくれているのだと思うには充分なやりとりだった。
《ちゃんと寝ろよ》
義人の言葉ひとつひとつに、藤崎は噛み締めるように頷いて返している。
こちらもそろそろ戻ろうと、しゃがみ込んでいたその場で立ち上がった。
「うん」
《好き、だよ》
「うん。俺も大好きだよ、義人」
《ふふ。おやすみ》
「おやすみ。俺の出てくる夢見てね」
《馬鹿》
笑いながら電話が切れた。
藤崎はそれでも名残惜しくて、しばらく立ったまま夜空を見ていた。
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