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第35話「目撃」
思ってみれば昔から、何でもできた兄だった。
追いつこうともがいたけれど、初めて兄と自分が違うのだと気が付いたのは、好きだった漫画を模写して描いた兄の絵が、まるでスキャンして印刷したかのようにその漫画の一コマそのものだったのを目にしたときだ。
「お兄ちゃんすっげえ!!うますぎ!!」
「ほんと?似てる?」
「似てるよ!!すげー!」
1歳違いの年子で生まれた兄と自分は、大体一緒に遊んでいた。
運動神経も良くて、頭も良くて、格好良くて、絵も上手い兄。
描いてもらった絵を小学校のクラスで自慢した事もあった。
使っていた透明な下敷きに油性マジックで好きなキャラクターを描いてもらった事もあった。
何もかもが「兄」だった。
見本のような人だった。
それが崩れたのは、高校受験のときだ。
「塾を変えるか。あの子に合ってるところを探せば良い」
中学3年生になって兄の成績がガクンと落ち込んだ事を、父も母も気にしていた。
受験期にこんな事があっていい筈がなく、担任も三者面談で何度も兄を励まし、奮い立たせ、そしてまた「第1志望は厳しいと思います」と母に何度も言っていたらしい。
毎日毎日勉強していた。
厳しい父が帰ってきた玄関のドアの開閉の音を聞くだけで、兄はよく、隣の部屋で啜り泣いていた。
コンコン
「兄ちゃん大丈夫?」
「、、大丈夫だよ。お前そろそろご飯だろ、下行ってろ」
心配になってドアを叩くと、いつも通りの優しい声が返事をしてくれたのを覚えている。
勉強しかできなかった俺にとって、父は優しくて尊敬できる人だった。
けれど、勉強ができなくなっていった兄にとっては、何よりも恐ろしい生き物になっているのだと、そのときやっと理解した。
うちは生粋の医者家系で、父も、父方の祖母も祖父も、その上も、代々ずっと医者だ。
父の親戚も家族に1人は医者がいる。
そんな重圧があったからか、結果、父が指定した第一志望の高校は不合格で、兄は滑り止めにしていた高校へ行く事になった。
「結局、滑り止めか」
兄は凄い人だ。
その筈だ。
父がいくら兄を貶す様な言葉を吐いても、優しくて、ゲームが上手くて、父と同じくらい尊敬できる兄は変わらない筈だった。
ゴッ
そんな音が隣の部屋から聞こえるようになったのは、兄が高校に上がる春休みの事だ。
「ほら、ゆっくり息して」
背中を摩りながら、俺の母親は母親らしい優しい声を掛けた。
カタカタと震えるテーブルの上の自分の手は、やがて拳を握り、力が入り過ぎてブルブルと震えた。
午後17時半になった。
「どうしたの」
俺は多くの人に支えられて生きて来た。
この母にも、厳しくも優しい父にも。
そして、たった1人の兄弟である兄にも、支えられて生きて来た。
「お母さん、」
リビングに置いてあるテレビはついていない。
カチ、カチ、と壁掛けの時計の秒針の音だけが響いている。
日が暮れ始めたのか、電気をつけていなかった部屋の中は暗くなって来ていた。
その雰囲気はいかにも不穏で、これから俺自身が口にする何かで、この家庭が壊れてしまうのではないかと暗示させるようだ。
「ごめん、」
これは緊張なのだろうか。
それとも何かよく分からない罪悪感だろうか。
もうどちらとも分からないものが胸の内でただ重たく、黒く、毛を生やしたように気持ちの悪い感触を持ってそこに居座っている。
「どうしたの」
「俺、見ちゃった」
情けないことに、声は震えていた。
ごめんなさい。
あんなもの見なければ良かった。
あの日の飲み会は断れば良かった。
お父さんが好きだ。お母さんが好きだ。
大切で、大事で、家族だ。
だからどうしても信じられない。
信じたくない。
心の中で数日間ずっと繰り返して来たようにまた家族に謝り、そしてあの日見てしまった光景をもう一度脳裏に映し出す。
見間違えるわけがないのだ。
「っ、」
生まれてこの方、ずっと一緒だったのだから。
その脳裏に焼きついた光景の中にいる人物を再び見つめ、悲しさで胸が締めつけられるのを感じた。
「昭一郎?」
何でもできて、格好良くて、優しくて、あんなに凄かった兄ちゃんはどこに行ったの。
いつからいなくなったの。
何で戻って来てくれないの。
大好きな兄ちゃんは、俺の尊敬していた兄ちゃんは、そんな事しない筈なのに。
「、、兄ちゃんが、男の人とキスしてるとこ、見ちゃった」
ゴッ
どこかでまたその音がした気がする。
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