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第54話「怒声」

義人達が旅行に行って2日目。 佐藤家では2階にある自分の部屋で昭一郎が先日知り合ったばかりの優希と遊びに行く日を決めるため、通話をしていた。 時刻は22時前だ。 父親の帰りが遅く、夕飯が20時過ぎだったのもあり、ゆっくりするとなるとこの時間になってしまった。 既に風呂は入り終えている。 「優希ちゃん行ったことないとこあんの?」 《んー、高円寺かなあ。原宿、吉祥寺、下北は行ったことある》 古着屋巡りが好きな彼女に惹かれ、昭一郎は一緒に行きたいと申し出たのだ。 あの日から何通もメッセージを送り合い、途絶える日がなかった。 そしてその楽しさと裏腹に、昭一郎は未だに頭の中に蘇ってくる兄の姿に頭を悩ませていた。 「あ、高円寺ね。誰か行ったって言ってたなあ。じゃあ高円寺行こっか」 《うん!》 「えーと、、何日空いてるんだっけ、ごめん」 《、、何か、行きたくない感じするんだけど、大丈夫?無理してない?》 優希の発言に、昭一郎はドクッと胸から嫌な音が聞こえた。 優希と連絡を取っている間や他の友人達と遊んでいる時間は忘れていられるこの家族の問題を、ふとした瞬間に思い出しては彼は苦しんでいた。 本当に、兄は同性愛者なのだろうか。 報告した後、1人で考えさせて欲しいと母親に言われた日から少し経った。 日中、父親が仕事に出ていて家で2人きりになっても、咲恵は昭一郎に義人の話しをしない。 まだ考えているのだろうと思って触れないようにしてきたが、何を考えたいのかは昭一郎には分からなかった。 そしてまた部屋に戻ると、昭一郎は1人で悩んでいた。 頼れる格好良い兄だった筈の男が、知らない顔をした瞬間を見てしまった事に対して。 「いや、行きたくないとかじゃなくて、ちょっと今、家の中がごたついてて、テンション上がらないだけ」 《えっ、何かあった?大丈夫?》 何を言ってんだか、と昭一郎は思った。 自室のベッドに寝転がり、代わり映えのしない天井を眺めながら、携帯電話を握っていない左手でシーツを殴った。 何をしてるんだ、自分は。 彼女に兄の事を言っても何も解決しないし、何かが変わるわけでもないじゃないか。 自分を落ち着かせながら、ベッドの枕元の角にいた丸いクマのぬいぐるみを持ち上げて腹の上に乗せた。 マキャベリさんと言う名前の、本当にまん丸な形をした、首とか胴体とかが別れていない、ただ丸いぬいぐるみだ。 「大丈夫大丈夫。行きたいんだよマジで。ってか、家から離れてたいから、ホントに行きたい」 マキャベリさんは、数年前にふざけて兄が買ってきた。 塾のテストで満点を取ったときだった気がする。 こんなものいらないのに、小さい頃から何かとクマ関連のものを押し付けてくる兄だった。 《私で良ければ聞くけど、、言えそうなことでもない?》 優希は遠慮がちにそう言ってくれた。 知り合って間もない、それも気になっている女の子にこんな事を言わせてしまうとは、と昭一郎は今度は自分の額に手を当て、電話の向こうに聞こえないようにため息をついた。 情けない。 揺さぶられ過ぎた。 けれどそれくらきには、彼にとって義人の存在と言うのは大きく、そして気がかりだった。 「んー、、ちょっと、やめとく。ごめんねホント。楽しい話したくさんしたいな、出かけたら」 《え、めっちゃするよ!!行きたいお店調べとくし、おしゃれなカフェとかいこ!?気分上げに!》 「うははっ、ありがと。俺も楽しいこと話せるようにメモっとく」 《あははっ》 元木優希は見た目も好みだったが、何より話が合う。 そして何というのか、ペースが合う。 ずっと前から知っていたかのような心地よさに浸りながら、昭一郎は口元を緩めた。 そのときだった。 「どういうことだッ!!」 「うわっ、」 《え、なに?大丈夫?》 寝転がっていたベッドの下から、そんな声が床を突き破って響いてきた。 昭一郎はその怒声に驚いて飛び起き、慌てて携帯電話を握り直す。 (まさか、) 嫌な考えが脳裏をよぎっていった。 「ご、ごめん。何か、親が揉めてるから止めてくる」 《えっ!?ほんとに大丈夫!?》 「大丈夫大丈夫!ごめんねホント、行ける日、メッセで送っといてくれる?」 《それはいいけど、、》 「ありがと。じゃあまたね、本当にごめんね」 《うん、じゃあ》 名残惜しさは十二分にあったが、それでも急いで通話を切った。 携帯電話を履いているズボンの尻ポケットに滑り込ませて立ち上がり、自室のドアに手を伸ばす。 「お願いだから落ち着いてッ!」 母の声だ。 先程の怒声は間違いなく1階にいる父親の声だった。 昭一郎は嫌な予感を胸に抱えたまま、バクンバクンとうるさい胸の内を落ち着かせるように大きく呼吸をして階段へ急いだ。 「お父さん!お母さん!」 自室を出て廊下を走り、階段を駆け降りてリビングのドアの前へ。 ドアの取っ手を掴んで下に押し下げ、扉を引くと中に入る。 「お父さん!!」 肩で荒く息をして、父親・義昭は鋭い眼光をドアを開けてリビングに入ってきた息子である彼に向けた。 義昭が立っているのはリビングの窓側の端にあるノートパソコンが置いてある机の前で、立ち上がった勢いに押されたのか、椅子が床に倒れている。 父は身体が大きく、義人より背の高い昭一郎ですら大学1年生でやっとその身長を抜いた。 もともと空手をやっていた事もあり身体に厚みもあり、体重はこの家の誰より重い。 兄と父では本当に親子かと疑いたくなる程、見た目が違っていた。 「昭一郎、、お前か、?」 「え、?」 「お前が同性愛者か!?男と付き合ってるのか!?」 「な、なに、何言ってんの、?」 「昭一郎、ごめんね、違うの、お父さん勘違いしてて、ごめんね、、」 「お母さん、、?」 事の発端は、仕事で必要な道具の値段を調べる為に義昭がリビングに置いてあるノートパソコンでネットを開き、それを調べようとした事だった。 検索エンジンの検索欄にカーソルを合わせたとき、検索履歴がその下にズラリと出てしまったのだ。 「ゲイ」「同性愛」「息子が同性愛者」「LGBT」「同性愛の受け入れ方」「息子がゲイだったら」等、様々な言葉が何も聞かされていない義昭の目に留まってしまい、一時的にパニックになっているのだった。 「お母さんがいけないの、昭一郎、部屋に戻って」 「お前なのか、昭一郎!!お前、この、医者になる男が同性愛なんて、!」 「お父さんやめて!!」 誰の話も耳に入らないのか、義昭はズンズンと歩いてその大きな身体を昭一郎に近づけ、訳が分からないという顔をした息子の胸ぐらを掴む。 「このッ、!!」 「!?」 咲恵の制止の声も聞かず右手を振り上げると、流石の昭一郎も怒鳴り返した。 「兄ちゃんに叩かない約束したんじゃないの!?お父さん!!」 「っ、」 その言葉に、振り下ろしかけた大きな右手が止まる。 「答えなさい、お前か、、お前が同性愛者なのか?」 「ッ、、!!」 言えるわけがない。 昭一郎の頭の中には、今もまだ、「ゴッ」と重たく響く音がするのだ。 その日の光景や匂い、天気まで、時間まで覚えているのだ。 (もう見たくない、もう見たくない、、) あんな兄の姿は見たくない。 彼は血が出るくらいに下唇に噛み付いて、何も言えないと意思表示をした。 どう捉えられようと、この問題を、この冷静さを失った父に話すわけにはいかないと、固く口を閉じている。 「昭一郎」 低く腹の底に響くような声だ。 ほぼ同じくらいの身長の義昭は昭一郎を睨み付け、眉間に皺を寄せ、悲しみと、怒りと、パニックでぐちゃぐちゃになった脳内を抱えたまま、全て押しつぶして事実を捻じ曲げようとしている。 自分の息子が、正常でないなんて。 彼の頭の中にはそのフレーズしかない。 そしてそれを否定したくてたまらない。 誰かの口から「違うんだよ」と言われたくて仕方がない。 彼は不安で、受け入れられないのだ。 自分の息子が正常でなく、男女の恋愛ができない欠陥のある人間だなんて。 男同士で愛し合うなんて馬鹿げた事をしている変態だなんて、と。 「お父さん、違うの、、」 「っ、お、お母さん何も言わないで、お母さん!」 昭一郎は言わなければ良かったと思った。 母は父と話し合えば何とかなると思っているのかもしれないが、その可能性は低い。 父は医者で、常に人の命と向き合い、助ける、死なせるのどちらかをその手にかけて生きてきた。 自分へのプレッシャーが人一倍に強く、そして、息子である自分達へのプレッシャーも、それの何倍も強くかけてくる人間なのだ。 (言わないで、兄ちゃんのこと、言わないでッ) 義昭の向こうにいる咲恵はリビングのフローリングに座り込み、口元を押さえて泣いている。 テーブルに引っ掛けられた手が力が入り過ぎて震えているのが見えた。 (お母さんやめて、やめて、兄ちゃんのこと言わないで、) 「お母さ、」 「義人なの」 「っ、、」 昭一郎は、息ができないのがどういう瞬間なのかをこのとき初めて知った。 「、、、え?」 義昭は咲恵の方へ振り返り、昭一郎を掴んでいた手を離す。 離すというより、力が入らなくなって、手を落としてしまったように見えた。 「義人なのッ、、男の子とキスしてたんだって、、昭一郎が、教えてくれて」 「ぁ、、あ、」 黙り込んだ父の背中が恐ろしくて、昭一郎は情けない声を漏らした。 「、、義人が、男の子と、、キス?」 地響きでも、地震が来ているわけでもない。 ただ、昭一郎の視界は何重にも影が重なりながら、ぐるぐると回っていた。 (お父さんに、バレた、、、)

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