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第57話「弱い」
「もう出る?」
「着替えたら」
8月13日、午前10時前。
藤崎の実家はここから1時間半。
義人の実家は違う路線で1時間程でつく場所にある。
結局昨日も3時ごろまでセックスは続いて、寝不足が苦手な義人としては非常に体調が悪い朝を迎えていた。
それでも6時間は寝ているのだが。
朝食はトーストの上に千切りキャベツと目玉焼きを乗せ、マヨネーズをかけたもので済ませた。
無論、無理をさせた次の日なので、いつものようにトレーに乗せた朝食を藤崎が寝室まで運んできてくれた、そんな朝だった。
泊まったホテルの朝食ビュッフェも美味しかったなあと思いつつ、キッチンからニュースを見つつ時間を確認しながら片付けを終えた義人に藤崎がそう聞いた。
そろそろ着替えねばならない。
「あれどこだっけ」
「ん?」
「アレ、アレ」
「Tシャツ?どれ?」
「こないだりいがくれた、ここに犬の刺繍入ったやつ」
「ああ、それね」
タオルで手を拭きながら義人がそう言うと、コーヒーを淹れ終えた藤崎はさっさと寝室に入ってクローゼットを開け、義人が言った胸ポケットに横向きのプードルが刺繍されたTシャツを持ってくる。
「あ」
「どーぞ」
「ありがと」
こんなものは藤崎にとって慣れたものだった。
目の前で寝巻きにしていた黒いTシャツをバサッと脱ぎ捨てる義人の乳首を見つめながら、ソファに腰掛けた藤崎は「ふうん」と彼の着替えを観察する。
目がいやらしい。
淹れたばかりのインスタントコーヒーをひと口飲むと、コトン、とマグカップを目の前のローテーブルに置いた。
彼は早起きな分、既に着替えを終えている。
「良かったな」
穏やかな声に、新しく着たTシャツの襟からすぽんっと頭を出した義人は、腕を通しながら首を傾げる。
「何が」
「お父さんに帰っておいでって言ってもらえて。それに久々だろ、帰るの」
「まあ、うん、そうな」
そう言えばそうだ。
昔は家にいるのが当たり前だったけれど、今では藤崎とここにいるのが義人の当たり前だ。
違和感なく、家族ともあまり連絡を取っていなかった。
ほぼ一方通行で母からはたまに「今日こんな事があって、」とメールが来たりはしていたが、彼女に「お盆は帰っておいでね」と言われても、義人は行く気になっていなかった。
(まあ、藤崎も離れたくないって言ってくれてるし、すぐ帰ってくるけど)
無論、義昭に帰ってこいと言われた嬉しさはある。
顔を見るなり眉間に皺を寄せられる日だってあるくらいに機嫌が悪いと自分の事しか考えられない人だから、そんな事を言ってくるのは本当に珍しいのだ。
「家族を想って」、義人に帰ってこいと言っているから。
けれどそんなこんなですぐに機嫌を崩して食卓に不穏を漂わせる人だ。
あまり長居しないに越した事はない。
義人は確かに義昭を尊敬しており家族としては愛しているが、血が繋がっていなければ相当苦手な人間だっただろうと思う。
義人が下手に周りに謝ったり気を遣ったり、周りの人間1人1人の機嫌を伺い、顔色を見てしまうのはこの義昭のせいが大きい。
誰かの「不機嫌」にひときわ敏感な義人は、小さい頃からひたすらにこの父親の機嫌に左右されて生きて来たのだ。
そしてだからこそ、ほとんど義人の前で「不機嫌」を見せず、「上機嫌」でい続ける藤崎久遠は彼にとって1番一緒に過ごしやすい人間でもあり、1番親しい友人で恋人だ。
「佐藤くん」
「ん?」
ソファの上の藤崎に視線を投げる。
「誘ってる?」
「ああ?」
「だってずっと乳首見せて来てるじゃん」
「はあ!?」
指をさされたまま自分の身体を見下ろすと、着替えている最中に話しかけられた為、左腕をシャツの袖に通そうとしたところで止まっており、確かにピンと立った乳首を藤崎に披露しているままだった。
「誘ってねえよ!バカか!」
袖に腕を通し、バッと裾を下までおろすと、義人は藤崎を睨んで叫ぶ。
「ふうん。バカでいーですよ、バカで」
マグカップの中からはふわふわと湯気が立っている。
夏だと言っても藤崎はホットコーヒーが好きだ。
無論アイスコーヒーも飲むけれど。
おもむろに立ち上がると、キッチンのカウンターの前にいる義人の前まで歩いてくる。
「誘ってるようにしか見えなかったから、ちょっと触りたくなってたのに」
そう言って手を伸ばし、左手の中指でピンッとTシャツに隠れてしまった義人の右の乳首をはじいた。
「ッ、、その目が節穴というのは大分前から知っていたがそこまでひどかったとは」
ムッとしながら義人が腕を組んで胸を隠す。
「いやだなあ、違うよ。この目は佐藤くんを都合いいように捕らえてくれるだけ」
「迷惑だな!!」
あっという間に距離をつめられ、腰に腕が回される。
グイと引寄せられながら、見上げた先の藤崎は、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべていた。
(あ、誘惑されてる)
妙に整った顔が、妙に色っぽい表情をしている。
義人は付き合う前から藤崎のこう言った瞬間の笑い方に妙にドキドキして、誘うようなそれに思わず手を伸ばしたくなってしまう。
抱き寄せてくる腕に応じて半歩前に出ると、至近距離から彼を見上げた。
地毛の黒いまつ毛は綺麗にカールしていて、彼が瞬きをせるたびにフサフサと揺れる。
きめ細かい肌をした頬に触れた。
「実家、帰っていいんだけどさ、」
「?」
「でも、今日中に帰って来て?」
抱きしめながら、コツ、と額を合わせてくる。
目を閉じた顔の眉間には、ほんの少しだけ皺が寄っていた。
本当は束縛なく、手放しで「いってらっしゃい」と言いたいのだろうがそれができず、自分に嫌悪感を抱きながら彼はそう言ったのだと分かって、義人は弱ったように笑いながら、ちゅ、とキスをしてやった。
「言われなくてもそうするよ」
一瞬物欲しそうな表情をした藤崎と目が合うと、彼はすぐに甘えるように首筋に顔を埋めた。
「うん。そう」
彼が口を開くと、肌に息が当たって温かい。
ぎゅう、と腰に回った腕に力が込められた。
「、、藤崎、」
「ん?」
抱きしめられて甘えられると、義人は自分が今藤崎久遠の目の前にいるのだな、と何となく良くわかった。
別に普段から浮世離れした感覚があるわけではないのだが、こんなにも求めて貰えて、安心し合う空気感の中で生活できているのが急に不思議に思えていたのだ。
「帰ってきたら、その、」
「うん」
藤崎もそんなことを考えているのだろうか。
義人の首筋の匂いを嗅いで安心しながら、今日1日は多分離れてしまうだろう恋人の温もりを今一度身体に覚えさせている。
「帰ってきたら、いっぱい一緒にいような」
「そこは、セックスしよって言ってよ」
「ん、」
クスクス笑う声が聞こえて唇を塞がれ、「言わなくても分かるんじゃんか」と思いながら、義人は藤崎の背中に手を回した。
片時も離れたくないだなんて、お互い随分、弱くなった。
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