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第58話「帰省」

どうせなら同じ日に帰ればいいと言い出した藤崎も実家に向かい、電車も途中までは一緒に乗っていた。 別れ際に「連絡めっちゃするから」と言われたのに苦笑して手を振ったのが20分程前で、違う路線に乗り換えてから、また電車に揺られている。 久々に向かう自宅への道で、ゴトゴトという音をただひたすら耳に入れながら、誰と会話するでもなく、義人はただ黙って人の少ない車内を見渡し、窓の外の街並みを見つめた。 「個別塾」「結婚相談所初回相談無料」「自動車教習所」、少し廃れたようなビルの背面には様々な広告が掲げられ、窓の内側から外側に向けて読めるようにコピー用紙に印刷した文字が貼り付けられている。 (ほんと、免許取っといて良かったなあ) 沖縄でのことを思い出していると、手の中の携帯電話が震えた。 藤崎か、何事か、と画面を覗くと、連絡用アプリのメッセージが受信されていて、入山からの連絡が来ていた。 「ふはっ、」 思わず笑ってしまったが、周りに人がいなくて良かった。 開いたメッセージにはただ一言、「アシカ」と書かれていて、その下に添付された写真がある。 和久井が背中の筋トレでうつ伏せの状態から背中を逸らして上半身を起こし、すごい表情をして白目を剥いているものだった。 「何してんだアイツら」 小声でそういうと、「さすがにキモい」と打ち返した。 「ふう、、」 久々に実家に向かっているからか、義人はどうにも緊張していた。 面白いものだった。 生まれ育った実家へ帰るだけだというのに。 やがて電車が最寄り駅につくと、蒸し暑く澱んだ風が肌を撫で、肺に湿気が溜まっていく。 雨が降った後のような、懐かしい匂いがした。 「、、、」 ふと、1人なんだと気がついた。 駅のホームにはまばらに人がいるが、義人は1番後ろの車両に乗っていたせいもあり、1人ポツンと夏の駅のホームに突っ立っている。 昼間、それも午前中だと言うのに、何故か寂しかった。 「、、久遠」 何が恐ろしくなったのか、そんなことまで口走っていた。 電車に乗っていた約1時間で、まるで日常から切り離され、藤崎や入山、滝野たちのいない、違う世界へ迷い込んだような気がした。 ガチャ 「ただいまー」 実家の玄関のドアは鍵が開いていた。 この辺では割と大きな家で、敷地をぐるりと囲った黒い格子状の柵と、大きな門が庭の前にある。 それを通り抜けいつも通りの少し重い扉を開いて、金属音を響かせながら閉めた。 入ってすぐ右側にある姿見の大鏡は、相変わらず綺麗に掃除されている。 一般中流家庭。 義人の実家はそんなものだ。 よくも悪くもなく、ただ、普通の家。 どこにでもある普通の家族。 「おかえり」 久しぶりの実家の匂いは、きっと周りの友人達で言う「おばあちゃんの家」の匂いなんだろうなと思った。 廊下を誰かが歩いてくる音がして靴を脱ぎながら前を向くと、どこにいたのか、母・咲恵は廊下の角を曲がって玄関に顔を出した。 玄関をあがってすぐ左手に部屋が1つ。 その少し奥に2階への階段。階段の後ろにも廊下があって、父と母の寝室と客間にもなる和室に繋がっている。 (寝てたのかな、、) 「ただいま」 墓掃除に行くのではなかったのか。 咲恵は出掛けるときの服装ではなく、家にいるか近所のスーパーやコンビニに行くときの割と楽な格好をしていた。 笑顔で返事をすると、咲恵は義人に良く似た弱ったような笑い方をしてみせた。 随分久々に見る母は、なんとなく少し老け込んだ気がする。 そして、何故だろうか。 鼻が赤く、目元が濡れている気がする。 心なしか、雰囲気もいつもの落ち着いた母ではなく、今にも叫び出しそうな唇を必死に噛み潰していて、何か不穏な気配があった。 「、、あのさ、どうかしたの?」 何だ? いつもはもっとにこやかな母が、そうではない。 瞬時、重たい空気を感じ取って、義人の肌がざわついた。 (帰りたい) この空気感は嫌いだ。 高校受験で失敗したとき、美大を目指したいと言ったときも、確かこんな風に暗くて重苦しく、肺に泥が溜まっていくような空気の中にいた気がする。 癖で胸元に伸ばしかけた手を、それでも藤崎の事を思い出して止め、義人は駅から実家まで20分の距離を歩いて来てかいた汗が背中を流れていくのを感じた。 「いいから、とにかく、上がって。昭一郎もお父さんもいるから」 「、、お父さん?」 何でこんなに早く帰って来てるんだ。 玄関の正面の壁にかけてある時計を見ても、時刻はまだ午前中を示している。 午前11時半。 仕事人間で超が付くほど真面目で、有給休暇も滅多に取らない父がこの時間にいるのはおかしい。 取ったとしても午後有給だ。 14時までは病院に居るはずだろう。 (墓掃除するにしても16時からとかだと思ってた) 実際、きちんと予定を聞いたわけではなかった。 昼近くに帰るから墓掃除は午後にして欲しいこと、それから、夕飯を食べたら自分のマンションに帰る事だけは昨日の内にメールで伝えた筈だが。 (俺が帰って来るからって1日有給取った?まさかな) 何故? 素朴な疑問が浮かんだに過ぎないのだが、義人の胸の中にもやもやした霧が発生し、ぐるぐると渦を巻いている。 靴を脱いで廊下に足を乗せると、咲恵は右手にあるリビングのドアを開けて義人が来るのを待った。 (ダメだ、なんか変だ、、帰りたい) 「入って」 肌がピリついて「帰りたい」と言おうとしたが、咲恵は不安げな顔のまま義人をリビングに誘う。 諦めて不審がりながらもリビングに入ると、テレビの前のソファに昭一郎が座り、ドアの目の前にある食卓の4人掛けのテーブルに義昭がついていた。 「、、ただいま」 父はこちらに背を向けている。 背を向ける形になるその椅子はドアから1番近く、家長である義昭の為の席だった。 「あ、おかえり」 何故だかあまり覇気がない昭一郎の声に不安が増した。 いつもは明るく、「おかえり兄ちゃん!」と言いながら、土産だの話しだのをねだってくる筈だと言うのに、もう、そう言う歳でもなくなったと言う事だろうか。 こちらを振り向いて遠慮がちに笑うと、義昭をチラリと見てすぐに前を向き、テレビの電源をリモコンで消した。 プツ、と言う音の後、重たい無音が部屋を満たした。 「ただいま、お父さん」 視線を泳がせ、キッチンの方を見れば、その手前にあるテーブルには父がいる。 ドアの前から動けない義人は恐る恐る口を開いた。 この空気感は、絶対に父が不機嫌な証拠なのだ。 「、、おかえり、義人」 厳しい視線がこちらを向いた。 高校受験に失敗して以降、自分の事をあまりよく思っていないのは知っているけれど、だからと言ってこの突き刺すような視線は何だろう。 胸の中心が、ドッと重たくなった。 「ん、、なに。どうしたのみんな。墓掃除は?」 いや、それとなく、何かがまずい事は分かっている。 成績か、それとも交友関係のことか。 最近何も耳に入れていないのだから、問題になる筈もないと思っていた。 成績だって、単位を取り損ねたりはしていない。 学生生活は順調そのもの。 その筈だし、そう伝えている筈なのだ。 「義人」 何も心配はいらない、怒られるような事はしていない。 そう自分の頭の中を静かにさせようとバレないように深呼吸をしていた義人は義昭の低く重たい声に名前を呼ばれ、ビクッ、と右手の指先を震わせた。 廊下にいた母が部屋の中に入りながら背中を押して来て、一歩、義昭に近づくと、余計に息ができなくなる。 帰ってきて早々に、何だと言うのだ。 「?」 椅子を退けて立ち上がった父親に視線を向ければ、睨みつけるような鋭いそれとぶつかった。 眼鏡の奥の目は、人を殺せそうにつり上がり、細められている。 (なに、、何で、) 眉間に寄せた皺は、いつの間にかあんなに深くなっている。 この人も老けた、と義人はどこか冷静に考えながらも、家中に充満しているこの重苦しい空気に沈められたように思えてならなかった。 どうしてこんなに、胸がギトギトと痛くなるんだ。 義人からすれば、まったく状況が分からないでいる。 重い雰囲気の理由は何なのか、どうして自分が睨まれているのか。 父の視線は厳しいままだ。 それは受験期が来るたびにずっと義人に向けられていた、差別に似た、呆れと失望、怒りの視線と似ている。 あの頃と変わらない眼差しを向けられるのは、相変わらず居心地が悪かった。 「お前、男の子と付き合ってるのか?」 「、、え?」 ああ、息ができない。

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