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第59話「不快」
張りつめた空気が重みを増して、奥深く、底まで強く、義人を沈めていく。
満たされた幸せだらけの目の前から、違う現実味のあるリアルへと、突き落とされ、引きはがされた。
(帰らないと、)
逃げろ。
どこかで本能がそう叫んだような気がする。
いや、実家に帰って来てから、あるいは地元の駅に降りたときから、いや、もっとずっと前からだろうか。
胸騒ぎがしていた気がする。
逃げ出せ、と突き動かそうとする衝動がある筈なのに、頭の中の警鐘がガンガンと打ち鳴らされているのに、体はそこから一歩も動けないまま、指先すらも動かせない。
呼吸ばかりが苦しくなっていく。
嫌な汗が背中を流れ落ちて行く。
ドッとかいた脂汗だ。
見開かれた目に映した1人の人物は、義人とは対照的に、落ち着き払ったような態度でゆっくりとこちらを見据えている。
子供の頃、眠れないときに、こうして静かな空間に時計の針が動く音がするととても怖く思えたのを思い出した。
今久々に、義人はその感覚を味わっている。
刻一刻と止まる事なく壁にかけられたそれは時間を繰り返し、秒針が動く音を部屋に響かせている。
11時50分になっていた。
「ん、ごめん、何の話し?」
誤摩化せ。逃げろ。
しらを切って、知らないフリをして切り抜け、藤崎の待っている場所に帰らなければ。
今ここでバレては、絶対にいけない。
義人はへらっと笑ってそう言い返した。
「、、昭一郎が、お前が駅で男と恋人のようなことをしていたのを見たらしい」
「男と?んなわけないって。見間違いだよ。変なこと言わないでよ」
駅と言うのは、どこの。
そしていつだ。
いつの話をしてる。
(昭一郎が見た?、、じゃあ昭一郎がお父さんとお母さんに言ったのか)
ドクドクと耳の後ろが波打ち、手の先にも血の巡る速い感覚がある。
全身が心臓になったようだった。
血液が沸騰したような焦燥感が広がって行く。
死にそうだ、と本当に思った。
「お父さん、お父さん。俺の勘違いかもしれないから、」
義昭が昭一郎の方へ向いたとき、義人も釣られて彼の方へ視線を流した。
恐怖で低くなった声に胸が痛んだ。
弟の顔は強張っていて、義昭に必死に「もうやめて」と懇願している瞳が見えた。
(昭一郎、、)
自分のせいでこんなことになってしまった、と言う想いが滲み出ていて、義人はまた息が詰まる。
義昭は冷静なまま、むしろ冷たすぎる冷ややかさで昭一郎を見ていた。
「俺が見間違えたんだよ。兄ちゃんこう言ってるし。ごめんね、本当、お騒がせしました。ほら、墓掃除行こうよ、いい加減」
下手くそな誤魔化し、話題転換。
けれど、今の義人にとってそれは唯一の救いだった。
父は昭一郎には甘いのだ。
このまま「そうか、勘違いか」で終わってくれる可能性だって充分にある。
義人は黙ってまた恐る恐る、盗み見るように父親を見上げた。
「、、男の子とキスしてるのを見たらしい」
「っ、」
そこでようやく、昭一郎が自分を駅で見たと言っているのがいつなのかが分かった。
何処にいたのだろうか。
藤崎と共に出席した、インターン先での最終日の打ち上げだ。
あの後、駅の近くで人目を気にしながらもしたあのキスを、何処かから昭一郎が見ていたのだ。
「でも、」
「義人」
昭一郎の怯えた声が、義昭の威圧的な声に掻き消されていく。
「義人。本当に、違うのね?」
後ろからかかる母の声さえ、疑心と困惑、動揺に満ちていた。
(だから、泣いてたんだ)
義人はその瞬間、それまで以上に身体に力を入れ、しっかりしなければ、と奥歯を噛み締めた。
母の鼻が赤かったのも、目元が濡れていたのも、全てこのせいだったのだ。
(俺が、ゲイかもしれないって思って、悲しくて泣いたんだ)
ぶわ、と悔しさやそれに対しての悲しみが胸の中に黒い煙のようなものを巻き起こしていく。
けれどここでそれに飲まれるわけにはいかなかった。
この家族は、自分がそう言う人間だと知れば絶対に受け入れなくなる。
それでもし大学を辞めることになったり、家賃の援助がなくなったりしたら、それこそあの世界にいられなくなる。
藤崎の隣。
そして、やっと心から好きだと思える友人達がいる世界から。
義人自身手が震えそうで、咲恵のように情けない声を出したかった。
けれど、そうはいかない。
父は義人が何かを誤摩化せばすぐにそれが分かる人だ。
取り乱してはいけない。
落ち着いて、冷静に答えて、嘘をつき通して切り抜けるしかない。
「本当に違う」
父親を、真っ直ぐ見上げて答えた。
「、、お母さんは昭一郎に何回も確認した。昭一郎もちゃんと思い出した上でお前だと言っていたそうだ」
自分か旅行に行っている間、そんな話し合いがここでは行われていたのか。
勝手に、と思ってしまった。
本人がいないところで、憶測で、ゲイかも同性愛者かも、と勝手に苦しみ、悲しみ、それについて話し合っていたのかと、義人は胸糞悪さすら覚えた。
「お父さん自身、こんな話題をいつまでも話していたくない」
勝手に呼び出して勝手に始めたくせにこの言い様だ。
久しぶりにくれたメールも、結局はこの真意を聞くためのものだったのだ。
嬉しかったのに、と義人また胸元に手が伸びそうになったのを堪えた。
藤崎にやめろと言われてやめた筈の癖は、どうにもこう言ったときには顔を覗かせるらしい。
「お母さんがどれだけお前のことを考えていたか分かるか。こんな話しを昭一郎から聞かされて、幻滅して、ガッカリして、不安になって苦しかったのが、お前、分かるか」
「、、すみません」
「何で謝る。同性愛者じゃない、違うんだろ?謝らなくて良い。ただ、分かるか、と聞いただけだよ」
肺に溜まった泥を吐き出したい。
こちらを真っ直ぐ見下ろしてくる鋭い視線は未だに緩んではいなかった。
父の見抜いてやろうというその視線に、とうとう義人の手が震え出した。
それは、藤崎とのことがバレるとか、大学に行けなくなるとか、ゲイであることへの恐怖からではない。
小さい頃から行われて来たこの父親の中で巻き起こっている裁判で一度も、無罪だよ、と優しくしてもらえた記憶がない義人にとって、彼の射るような視線も、高圧的な雰囲気も物言いも、全てが恐ろしいのだ。
「男と付き合う変態なんてものに、育てた覚えは無い」
「、、ぇ、?」
頭の中に反響するような、衝撃的な台詞だった。
「お前はそんな子じゃない」
「、、、」
「そうだな?義人」
突き刺さる言葉を発したのは、やはり父だ。
のどの奥で、嫌な音がした。
怖い。
この人が怖い。
ずっと、小さい頃からずっとずっと怖かった。
怒鳴られたくない。
怒られたくない。
(俺と、久遠は、、)
でも、と思わず義人は歯を食いしばっていた。
(変態なんかじゃない、)
脳裏に蘇る優しい笑顔や、自分を押し倒してくるときのうっとりした顔。
授業を聞くとき、人と話しているときの真剣な顔。
どの場面でも、藤崎は美しい男だ。
意志があって、頑固で、真っ直ぐに自分を持ってる、強くて優しい男だ。
どうして。
何故。
その男を愛して、何が悪いのだろう。
(変態なんかじゃない!!)
どうして同性愛と言うだけでそこまで否定されねばならないのか。
どうして自分ばかり、この家の中では異端とされ、否定されて、ずっと肩身が狭い思いをしなければならないのか。
この世には、医者かそうじゃないやつしかいないのだろうか。
義人はずっとこの瞬間が怖った。
自分達ではない誰かにゲイであることがバレて、否定されて貶される事が。
そうなれば自分もきっと、自分が異常だと思ってしまうだろうと考えていたからだ。
(藤崎と俺は、そんな、簡単な言葉で否定できるような関係じゃない)
抗わないと、と思える自分がいることに驚いている。
20歳も過ぎた。
まだ親がいなければ大学に通えないにしても、恋愛にいちいち口を出されなければならないのだろうか。
これは、佐藤義人の話しであって、家族の話しではない筈だ。
家族で恋愛しているんじゃない。
個人の意志と心で相手とぶつかっている。
だとしたらどうして否定されないといけないのか。
じゃあ女の子だったらどんな人間でも許されるのか。
他の男とバンバン子供を作って家に帰ってくるようでも、女と付き合うなら変態と言われないのか。
生まれたばかりの性別が女だった赤ん坊に恋をしても、相手は女性だからと言って正当化されるのか。
ゲイなら変態、異常と言うのは、偏見過ぎやしないか。
「、、お父さん」
真っ直ぐ父を見て言った。
今度は敵意を剥き出しだったが、それでも堂々と澄んだ目で父を見ていた。
「嘘をつきました」
「義人、、?」
「昭一郎が見たのは、俺です」
後ろから、母の悲しそうな声がした。
義人の声は震えていた。
泣きそうで、情けないのかも知れない。
それでも義人はこのとき、抗おうと決めた。
もうこれが家族に会う最後になったとしても、家を出て行け、二度と顔を見せるな、と言われても。
藤崎久遠を愛している佐藤義人と言う自分を、もうこれ以上、否定されたくないと思えたからだ。
「俺は、男と付き合っています」
ただ反抗したかったわけじゃない。
もういい加減に、諦めて欲しかっただけだ。
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