60 / 136

第60話「拒絶」

ゴッ 「っ!!」 「お父さんッ!!」 じんわりと、強打された頬が痛み出して、それよりも床に倒れたときに打った肘や腕が痛いようにも思えた。 フローリングの溝を見つめて、一体自分に何が起きたのだろうかと義人は考えている。 久々すぎるその痛みに、一瞬意識が飛んだように錯覚した。 殴られたんだ。 しかしながら、父を止めるために大声を出した母でさえ、義人には駆け寄ろうともしなかった。 「この、恥さらしの大馬鹿者ッ!!」 馬鹿、と言われるのは慣れている。 この家の中では特にそうだ。 「兄ちゃんッ!!」 昭一郎はその光景に脚を震わせたものの、ソファから立ち上がって義人に駆け寄り、彼の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしていた父との間に入り込む。 「いい、昭一郎、退いてて」 義人は身体を起こしながら、きっと親から一度も殴られた事なんてないのだろう弟の腕を掴み、退かせようとした。 「兄ちゃんごめんなさいッ、お父さんもうやめよ!?もういいから、もう、」 「うるさいッ!!」 「退いてろッ!!」 怒鳴る義昭の右手の拳に力が入るのが見え、義人は必死に自分を庇う弟の身体を父親から遠ざけるように横に押して立ち上がった。 頬が痛い。 歯がぐらついていそうで怖くて触れなかった。 「美大なんていうふざけたところに行くと言い出したときから、お前にどれだけ失望させられたと思ってる!?」 「ふざけたところじゃないッ!!」 睨むように見上げた先で、父は鬼のような形相をし、わなわなと肩を震わせている。 ああ、あの頃と一緒だ。 大学に入る前、受験期の1年間。 義人が医者にならないと言ったあの瞬間の父親と。 握り締めた拳が震え、義人ももう黙ってはいられずに食いしばっていた歯を外し、大声で怒鳴った。 「何で俺がやることなすこと全部全部否定するんだよッ!!」 ビリッビリッと空気が震えているのが分かる。 昭一郎は怒鳴り合う父と兄を見上げ、駆け寄って来た母と目を合わせてから息を吐いてまた2人を見守った。 「こんな変態に育てた覚えは無い!男と付き合ってる!?よくも親の前でそんなことが言えたな!!よくもそんな真似ができるな!!」 「俺の話しを聞けよッ!!」 ダメだ、言葉が通じない。 声が届かない。 浴びせられる言葉が義人を否定していくばかりで、義人の言い分も何もかも、義昭には全て聞こえてはいなかった。 頭に上った熱い血のせいで、人の話を聞くまでも、一切の余裕がないのだ。 「弟に勉強で越され、才能と呼べる物もないまま、テキトーにできる職業を選んで自分勝手に生きようとしたのに加えて、更にコレはなんだ!!同性愛者だと!?」 「聞いてよッ!!」 「同性愛者だとッ!?」 「ッ、」 藤崎と一緒にいた楽しい時間。 幸せで、大好きで、満たされていた時間が、義人の目の前でヒビが入って、大きな音を立てながら崩れていくのが見える。 「お前はうちの恥だ!この出来損ないの馬鹿息子ッ!!」 「な、ッ」 同時に心が。 強くなった筈だった心が、パリン、と泣いて砕け散った気がした。 「、、、」 ああ、そんなに言われないといけなかったのか。 同性愛者と言うのは、そんなに恥ずかしいものなのか。 言い返しても言い返しても、話しすら聞いてくれない。 ほんの少しもだ。 義人の中にある藤崎への真剣な気持ちも、美術と言うものに対しての情熱も、将来目指している職業の話しも何もかもを否定されただけだ。 例えようのない心の重たさに息が詰まり、悲しくて堪らなくて眉間に皺を寄せ、義人は表情を歪めた。 (もう、ほっといて、欲しい) 何もかも決めつけられ、何もかも否定される。 ドッと、疲れを感じた。 「相手の男か。同居してる男の影響でそんな風になったのか、、?」 同居してる、男の、影響? 何を言ってるんだ、この生き物は。 義人は目を見開いて、ただ感情もなく父を見つめた。 怒りは過ぎて行ったのか、それとも怒鳴り過ぎて苦しくなったのか。 義昭はハア、ハア、と胸を押さえて必死に呼吸をしながら、額にかいた汗を拭う為なのか、違う手で顔に触れた。 カチャ、と指先が当たって眼鏡がズレた。 「違う」 義人の脳裏には、「おかえり」と笑ってくれる藤崎がいる。 けれどそれはもう随分と遠い記憶だったような、永遠来ない未来の想像だったような気がした。 「そうか、だから、、そんな男に騙されて、」 「お父さん、違う。聞いて、お願いだから。それは違う」 「義人は巻き込まれたんだ。そんな男に、」 「違うって言ってんの。何で聞こえないの、、?」 どうしてどの言葉も父の耳に届かないのだろうか。

ともだちにシェアしよう!