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第61話「意志」

この距離で、この音量で聞こえない訳がない。 だとしたら、ああ、そうか。 聞く気がないんだ。 そう気が付いてしまった義人はハアー、と大きく息をついた。 分かってはいたのだが、理解し合えるように努力をするスタートラインにすら立てないのだと知って絶望する他なかった。 「もうやめなさい」 「え、、?」 ポツ、とまるで今思い付いた事を呟いてみただけのような話し方だった。 (なに、?) 義昭は義人を見ているのに見ていないような視線で、義昭自身が「もう限界だ」と言っているような雰囲気があった。 額の汗を拭い終えた手は今度は喉元に添えてある。 ズレた眼鏡は掛け直された。 何をそんなにプレッシャーに感じる事があるのかは知れないが、それでも義昭は自分が責苦を負ったように暗い顔をしている。 義人は訳が分からなかった。 「別れなさい」 急に言われて、彼も思考回路がよく回らなかった。 いや、義昭の言葉を理解したくなくて考える事を拒絶してもいる。 「、、、」 ツー、と繋がらない電話の向こうから聞こえるような変な音が耳の後ろ、いや、奥から聞こえてきていた。 昭一郎も母も、何も言わない。 義人ももう返せる言葉がなかった。 どうせ返しても、この父親には届かないのだ。 「その男とは別れて、もう同居もよしなさい。それで全部終わらせるなら、許してやる」 何を言っているのか理解できない。 許してやるとは、誰にどう、許しを乞えばいいのか。 何処にその必要性があるのか。 義人はゴク、と絡まって飲み込み辛い唾を飲み、喉の奥へ追いやった。 そうすると、口の中が異常に渇いていた。 「、、、」 義人は気持ち悪さを感じながらも、これだけは言わなければならいと思って、シン、と一瞬でも静寂に包まれた部屋に響く声で、はっきりと言った。 「嫌だ」 出した答えは間違っていないと思ったし、許しは必要ないと思った。 「、、何て言った」 当然のように義昭は鋭く厳しさを増した視線で義人を凝視して聞き返す。 「嫌だ」 怖い。 尋常ではない程に胸が痛くて、苦しくて、感覚が麻痺するくらいに、義人は恐怖に押し潰されそうだった。 義人は小さいときから、義昭が怖い。 それに気がついたのは、男のくせに大きな音を怖がっているのを自覚したときだった。 ガラスが近くで割れる音。 何か重い物が床に落ちる音。 バタンとドアが閉まる音。 それだけで、義人は異常にビクリとする。 音が怖かった。 何故だろうと考えた結果、出た答えは父親だった。 別に驚くのは普通の事であり、全てが義昭のせいと言う事ではない。 だが、小さい頃から怒鳴られて来た記憶が、いちいち頭の中に甦るのだ。 イライラすると物に当たり散らすくせのある義昭が、小さい頃から義人や昭一郎に聞かせて来た音のせいで、大きな物音が怖い。 そんな経験や生まれ持った敏感さもあってか、義人は人や自分の「不機嫌」がダメになった。 友達と喧嘩するのも苦手で、大声を出されて怒鳴られるのに耐えられなかった。 「不機嫌」の周りにある大きな音が染み付いてしまって、過剰なくらいにビクつくのだ。 「別れない」 義昭が人の話しを聞く余裕がないのは知っている。 今睨み合っている父もまた、大きな音が嫌いで人の早口も苦手だ。 父の父、つまりは父方の祖父もいつも怒っている人で、義人も昭一郎も生前の祖父が大嫌いだった。 義昭もまた、その祖父にずっと高圧的な態度を取られて、期待に応えなければと自分にプレッシャーをかけて生きてきた人間で、余裕と言うものがない。 だからこそこうやって息子に辛くあたる。 父親だからこそ我慢して、恩も感じてこの家にいる事ができてきたが、義人は長男と言う事もあり、そんな余裕のない義昭から随分厳しくしつけられてきた。 医者の息子は医者であれ。 その想いで生きてきた義昭にとって、義人はまったく手のかかる、人騒がせで気に入らない息子だ。 愛してはいても、否定せずにはいられなかったのだ。 自分が祖父からしつけられ、信じて歩いてきた道を教えよう、同じように歩ませようと努力してきたものを全てぶち壊した張本人が長男の義人だ。 それがなかったとしても、同性愛者だったと言われても今の義昭には到底受け入れられない。 元から少ない許容範囲を超え過ぎている。 「絶対に、嫌だ」 けれど義人からすれば、全て逆に考えていた。 この余裕のない父親に従ってばかりいては、自分はいつか自分でなくなる。 逃げたくて美大に行きたいと言ったんじゃない。 昔から、絵が上手いと言ってくれた人たちがいて、絵を描いたり物を作るのが好きだったから美大に行きたかった。 父親のように自分にも他人にも厳し過ぎて、首を絞めるように生活する人生は見ているだけでも嫌になった。 人に命を預けられたくないと思った。 決められた道がつまらなく感じた。 やれ、やれ、と言われてきた勉強や、初めからなるものだからと決められていた医者と言う職業ではなく、心から、自分からやってみたいと思えるものがあったから美大に行った。 「何がいけないの」 そして、藤崎と出会って、藤崎を好きになった。 「何がいけないんだよ」 それは自分の人生で、義人自身の意志で、恋で、心のままだ。 誰かが邪魔していいものではない。 誰かが考えを押し付けて否定していいものではない。 「何がダメなんだよ」 彼はただ、好きな人といるだけなのだから。

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