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第65話「不安」
「、、、」
午後17時半。
掻きむしった肌が痛いのに、義人は未だに手が止められなかった。
「兄ちゃん、?」
「、、、」
「兄ちゃん、それやめてよ。大丈夫だよ。俺、いるから」
「、、、」
自室のベッドで眠っていた義人が目を覚ますと、彼が起きたときまた暴れないようにと見張りにつけられていた昭一郎が動きそうになった右手の手首を掴んだ。
彼はベッドの端に座ってこちらを見下ろしている。
「何時、」
掠れた声が出た。
「5時、、半だな。飯食う?あるよ。甘いもんが良かったら、コンビニ行って買ってくるし」
「、、いらない」
そう言うと昭一郎が抑えていなかった左手が急に動き、また伸びた爪でガリッと鎖骨を引っ掻き始めた。
「兄ちゃんッ!!」
「、、、」
虚な目は先程から壁を見ている。
シミも何もないところだ。
左手まで昭一郎に押さえ付けられて、義人は身動きが取れなくなった。
(これが嫌だったから、お父さんに言わないでって言ったのに、)
昭一郎は兄を見下ろしながら、カチ、カチ、と口の中の横の壁を軽く噛んだ。
これは不安になったときにやる彼の癖だ。
義人がリビングで暴れた後、少し落ち着いたところで3人がかりで睡眠改善薬を飲ませた。
考え過ぎでたまに眠れなくなる義昭が常に持っているもので、最近はあまり飲んでいなかった為、大量に残っていたのだ。
家族は義人に少し考える時間を持って欲しかった。
もう一度落ち着いた彼と話しがしたくて、本当なら鎮静剤がいいのだろうがそれがここにはなかったので、代わりに睡眠薬を飲ませたのだ。
薬を飲ませてからソファに座らせて飲み物を持たせ、咲恵が昼食を作り出し、義昭が本当に知り合いの精神科の医師に電話し始め別室に移ったところで、昭一郎に監視されていた義人は眠くなって寝た。
弟に運ばれて自室に来てそのままベッドに寝かされ、5時間が経っていた。
「兄ちゃん、マジで、搔くのやめろ。分かる?」
「、、、」
「おい!!」
「、、く、ぉ、ん」
「えっ、?」
小さく呼んだ名前が誰のものか知らない。
壁を見つめたままの兄の瞳から、パタパタと枕の上に涙が落ちて行くのを、昭一郎は不思議な気持ちで見ていた。
「久遠、、」
クオン。
綺麗な名前だと思った。
そしてそれをあまりにも愛しそうに呼ぶ兄を見て、彼は胸の奥が痛むのを感じた。
「それ、は、藤崎さんて人の、名前?」
「うん」と言うように目を閉じた。
義人の目からはぼたぼたと涙が落ちた。
やはり、綺麗な名前だと思った。
「、、出ないな」
何度も電話をした。
何度もメッセージを送った。
それでも、何も無い。無反応だ。
「くー?どしたの」
義人と暮らしているマンションの一室に一緒に帰って来ていた里音が首を傾げると、藤崎は眉間に皺を寄せたまま彼女に振り返り、目を合わせて「うーん」と唸った。
お互い墓掃除をする為に実家に帰省する事になって、2人は午前中に別れてそれぞれの実家へ向かった。
離れてからも昼頃まで返信が返ってきていたのに、義人から一切連絡が来なくなったのだ。
午後17時45分。
藤崎は不安になっていた。
「向こうで寝てんのかな。佐藤くんから連絡が返ってこない」
「んぇ。大丈夫?事故?やだよやだよ、そんなの」
同じように不安になった里音が彼の携帯電話の画面を覗くと、メッセージは30件程送信しており、尚且つ20回は電話を掛けていた。
「くう、5時間連絡こないだけでこんなに、、」
「マメだからいつもは1時間くらいしたら連絡あるんだよ。俺がうるさいのも知ってるし、どうしても返せないときは先にそう連絡くるし」
「まあ、そりゃ熟知してるだろうけどさ。でも分かってても返さないってことでしょ?流石に5時間は、何かしてるか寝てるんじゃない?」
「んー、、」
このとき、流石の藤崎も内容は分からなかったが妙な胸騒ぎがしているのは感じていた。
連絡が3時間返ってこなかった時点で不安になり、何かあったのかもしれないと早めに実家を出てマンションに戻ってきたのだが、中はもぬけの殻だった。
義人がいない。
連絡もない。
極度に襲ってくる孤独が、藤崎を不安にさせている。
もうすぐ18時になるのだから、メッセージの一件でも来ておかしくない筈なのだが。
「、、寝ちゃったのかなあ」
とにかく一度、落ち着く事にした。
8月初めに2人への当てつけでモデル仲間と旅行に行った韓国のお土産を紙袋いっぱいにつめて持ってきた里音も、義人に直接渡したかったなあと思いながらも諦めて袋だけ置いて帰っていった。
光緒と飲みに行くらしい。
藤崎も誘われたが、義人が帰ってきたら合流すると言って一度断った。
「、、義人」
1人きりの部屋、1人きりのソファは久々だった。
何故だか冷たく感じる感触を座って確かめながら、細めた視線の先に彼を思い浮かべつつ、無音が嫌になってテレビの電源を入れる。
ニュースが終わるところだった。
(あー、ダメだ。無理)
会いたい。
もしも実家に行って寝てしまったのなら、明日までは義人に会えないだろう。
そう考えただけで、藤崎の体は焦がされるようだった。
会いたい。
少しでも離れると不安になる辺りは、藤崎も随分、弱くなったものだ。
「事故でないといいけど」
こんなに不安になるなら自宅の電話番号を聞いておけば良かった、と今更ながらに後悔した。
寝る前にもう一度連絡をしようと決めて、藤崎はソファの背もたれに背中を押し付けて項垂れる。
やはり、何だか少し、嫌な予感がした。
ふ、と目が覚めた。
20時を回っていた。
昭一郎はいない。
1階に夕飯を食べに行ったのかもしれない。
久々の自分の部屋を見回して、誰もいないのなんて分かりきっている事なのに、妙な感覚がした。
でも今その感覚の正体を探したくはない。
解りたくはない。
気がついてしまった事実、突き付けられた現実に、正面から目を向けるだけでも、今の義人にはキツすぎるくらいだった。
(連絡、しないと)
誰に?、と考えてしまった。
ああ、解りたくない。
思い出したくない。
先程から義人はその名前を忘れよう、考えないようにしようと思っているのに、どうしてもそれができない。
「助けて、、久遠」
会いたい。
触れたい。
名前を呼んでほしい。
夢だよ、とまた優しい声で起こしてほしい。
申し訳ない事ばかりしている自覚はあるのに、義人にはどうしても藤崎と言う存在しかなかった。
もちろん、藤崎自身がそう仕立て上げたのだが。
また、ごめん、と言って義人は1人で泣き出していた。
頬を伝う涙が止まらず、目から溢れて抑えられなかった。
「ごめん、久遠、ごめんなさい」
苦しい。
胸に溜まった気持ちの悪い何かが消えない。
飲み込む事も吐き出す事も出来ずにそこにある。
義人はベッドの上の掛け布団にくるまって、脚を折り曲げて抱え込んで目を閉じた。
いっそ、胸にナイフでも刺してほしい。
そうしたら全て、なくなってくれるような気がした。
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