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第66話「感触」

何も食べられなかった。 20時半にまた一度起こされて目を覚まし、もう泣いていない母親にトレーに乗った夕飯を見せられた。 「、、、」 「少しでいいから何か食べない?」 落ち着いた少し低い声は柔らかくて、義人を安心させようとしているのがよく分かる。 「義人、あのね。今は何にも考えなくていいからね。お母さんもお父さんも突然のことで、ちょっと、うーんと、、焦って、分からなくなっちゃってるから、ちゃんと話し聞くから、明日もう一回話そう?ね?」 しかし義人からは、夕飯が不味そうに見えた。 唐草模様が藍色で入っている自分用の茶碗には白飯が盛られて湯気が立っている。 箸も前から使っているもので、食器も見慣れたいつものやつ。 おかずは鯖の味噌煮だ。 義人の好物のひとつで、母が良く作るもののひとつ。 昭一郎が焼き魚があまり好きではないので、その代わりに和食となるとこれを作りがちだ。 味噌汁はワカメと豆腐と油揚げが入っていて、本当に良い匂いがしている。 なのに、不味そうに見えた。 (藤崎の飯がいい、、パスタとか、おにぎりとか、) 良い匂いを嗅ぎながらも、義人は食欲が湧かない。 疲れたな、と思うばかりだった。 「義人、大丈夫だからね。精神科なんて嘘だから。お父さんがそんなことするわけないんだから。ね?」 「、、さっき電話してた、病院」 「あれは、自信がなくなっちゃったんだと思う。だから、もう一回落ち着いて良く話そうね。明日でいいから」 「、、、」 「相手の子と別れるにしても、ほら、色々謝らなきゃいけないだろうし、荷物とか、マンションのこととかもあるし、お母さんも行くから」 「、、、」 「一緒に行くから。ね?」 「相手の子」と言われると、藤崎が酷く遠くに感じた。 そんな呼び方をして欲しくはない。 彼は藤崎久遠と言って、きちんとそこにいる筈の人間で、たった1人の恋人だから。 (違う、もう、別れなきゃいけないんだった) ベッドの端に座った母を見たが、彼女は義人を憐れみ、可哀想なものだと、そう言う目しかしていない。 「ご飯、いいや。ごめんね」 義人は笑う余裕もなくそう言うと、母に背を向けるように布団の中に潜り込んで目を閉じた。 浅いため息が聞こえてから、「そっか」とひと言。 やがてギシ、とベッドのスプリングが鳴いて、咲恵が立ち上がって部屋を出ていった。 夕飯の匂いが微かに部屋に残ってしまっている。 「、、、」 結局、藤崎への連絡は一切しなかった。 そう言うよりは、出来なかったと言った方がいいかもしれない。 携帯電話にも触れずに、ただ泣きながら布団にうずくまってずっと寝たり起きたりを繰り返しているから。 咲恵が部屋を出ていってからしばらくして眠りに落ち、また目が覚めた。 午前1時になっていた。 「、、、お腹空いた」 見たくなくて途中から電源を切ったままの携帯電話が枕元にある。 きっと藤崎の事だから、電話もメッセージもいっぱいしてくれているんだろうと思う。 けれど、見る気にさえならなくて、代わりにまた涙が浮かんで来た。 (いつの間に、こんなに、) こんなに好きになっていたんだろう。 最初は大嫌いで仕方なかったのに、何故今はこんなに藤崎が好きで仕方ないんだろう。 好きで、でも、だからこそ余計に苦しくてたまらない。 「藤崎」と思い起こすだけで胸の中は黒く重たくなり、途端に息が苦しくなる。 「っふ、、ふ、ぅ、、」 布団にくるまったまま重怠い身体を両腕で抱きしめて摩った。 「お腹空いた、藤崎、、ご飯、今日、何にする、、?」 会いたい。 触れたい。 話したい。 本当は、声が聞きたい。 ほんの少しでもいいから、とそう思うのに、体は動かない。 電話をかけようとも、連絡を返そうともしない。 感覚が遠のいている気がした。 摩っている二の腕に「触られてる」と言う感覚があまりしないのだ。 「、、、」 暗い部屋の中で目を細めた。 『お前が悪い』 頭の中に、父親の言葉が蘇ってきていた。 悔しいけれど、父が言った事の可能性は否定できない。 義人は初めから同性愛者だった可能性が高く、それに藤崎を巻き込んだかもしれないと言うのはあり得る話だった。 「洗脳」なんて大それた事が自分にできるかは分からない。 でも、優し過ぎて自分を想い過ぎているところがある藤崎が、その優しさが故に義人の性癖にまで寄り添ってくれている可能性はなくはない。 「、、、」 そんな、有りもしない馬鹿な事をずっと考えていた。 「藤崎、」 暗い部屋、うずくまった布団の中が自分が吐いた二酸化炭素で満たされて酸素が足りなくなって苦しくなり、バサッと身体からはいで大きく息を吸う。 藤崎が義人に洗脳されて、義人に巻き込まれてゲイになって、彼と付き合っている? そんな事はある筈がなかった。 ある筈がないと言うのに、分かっているのに、義人はまるで自分を追い込む為にそう考え続けていた。 そうしなければいけなかった。 藤崎と別れる理由を探して全部自分が悪い事にしてこの問題を終わらせなければ、義人は家族をめちゃくちゃにしてしまったと自分を責め続ける事になる。 それは、彼1人には堪えられない、大きな大きな罪悪感になるだろう。 そんなものを抱えたまま藤崎といるのは不可能だった。 日に日に病んで、結局は藤崎と自分の関係を自分で終わらせに行くだろう。 佐藤義人は優し過ぎるのだ。 誰にも迷惑をかけたくなくて、誰も傷付けない方法を探して、そして全部自分に背負わせ、自分を殺す程痛めつけ、それで終わらせようと考えてしまう程、臆病者で優しいのだ。 「帰り、たい、」 ぼた、とまた枕に涙が落ちて染み込んでいった。 本当だったら、今、どうしていたろう。 ここに来ていなかったらきっと、藤崎と一緒に夕飯を食べていた。 それから一緒に風呂に入って、テレビを見て、笑い合って。 今頃、藤崎に抱かれてた。 いつもみたいに丁寧すぎるくらい丁寧に扱われ、気を遣わなくても壊れたりしないのに、傷つけないように、爪も立てずに抱きしめてくれていたんだろう。 「、、ん、」 肌を滑る手の感触が。 首筋に触れる唇の感覚が。 ゾワリと快感を引きずりながら、脳裏に甦って体を震わせた。

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