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第69話「交遊」

ぼんやりと目を開ける。 いつも聞こえる優しい声がない。 頬に触れる暖かい手も、重ねられる唇もない。 寂しい。 それと同時にまた、胸が重くなった。 「、、、」 自分の体が、自分の物じゃないみたいに重くて、だるくて、仕方がない。 やる気が出ず、起き上がる気力さえも無い。 かろうじて手を動かして携帯電話を取ろうとして、義人はハッとしてやめた。 (今見たら、泣いて縋りそうだ) 脳裏に浮かんだ藤崎の顔を掻き消して、また布団の中に腕を引っ込めた。 午前10時20分。 8月14日、土曜日の朝だ。 「、、藤崎」 いない相手の名前を呼んだところで、誰の耳にも入らずその声は消えていった。 そうしたらまた泣けて来て、昨日からいくつ目かになる涙がポタ、と枕に落ちる。 昨日、あの一瞬の時間だけで過度にストレスが掛かりすぎた義人の身体は未だに怠く、頭の中にはもやがかかっていた。 何かもっと大切な事を考えなければいけないのに、それが何かがハッキリしない。 ただボーッとして、何も考えずに息だけしている生き物のようになってしまっている。 コンコン ドアが叩かれた。 「、、、」 部屋のドアには鍵が付いている。 その気になれば誰も入れない状態にできるのだが、それはやめておいた。 何年か前にそれをやったとき、随分と昭一郎に迷惑をかけてしまった出来事があったからだ。 それ以来、義人は部屋の鍵をかけないでおいている。 「義人?ご飯食べない?」 食べたくない。 藤崎が作ったものが食べたい。 頭の中がふわふわしているくせに、それだけはハッキリと脳内に浮かんだ。 「ごめん、、いらない」 かすれた声で短くそうとだけ言った。 「でも、何か食べないと」 扉を通して、くぐもったような声。 昨日は駆け寄りもしなかった母が、必死にここから義人を出そうとしている。 父はきっと1階にもこの家のどこにもいないだろう。 土曜日だからと言って仕事がない訳がない。 それでも、午後から診察のときもある。 部屋から出れば鉢合わせする可能性がなくもない。 だから、ここから出る気にも、会う気にもならなかった。 「いらない」 流石に起きてもいい時間だろう、昼の12時を回っていた。 義人は藤崎と朝方までセックスしてなければ、何があっても11時前に一度起きる。 しかし電話もアプリのメッセージも来ない。 携帯電話が壊れたと言うなら、彼の事だ。 藤崎を想って心配をかける前に真っ先に帰ってくる筈だ。 「、、、」 だとしたら、やはりおかしい。 夏休みでも造形建築デザイン学科の研究室は動いている。 午前中に一か八か電話した藤崎は、2年生のときに自分達のクラスの助手を勤めていた平野と話しをした。 義人と藤崎がルームシェアしている事は無論知っている相手だ。 率直に、「連絡が取れないので実家の住所と電話番号が知りたい」と言ったのだが、平野からすれば「友人なのに心配しすぎだよ?重い重い」と、確かに義人の家の事情と自分達の関係を知らない人間からすれば当たり前の返事を返された。 《あと普通に個人情報だから、教えられないよ》 平野からすればやはり女子に懐かない事で有名で人間離れした顔の良さの藤崎からのご指名の電話が来た事にときめきを感じていたのだが、内容を聞いて「何だ、佐藤のことか」と最後は少しがっかりした声だった。 研究室に聞けないとなると、と藤崎はまた頭を悩ませる。 何となく昨日から続いている胸騒ぎが止まない。 出来る限り早く、義人に会わなければならない気がしていた。 「研究室がダメだと、、えーと、」 昨日の夜に食べたコンビニ弁当がまだ胃に残っている気がして、朝も昼もろくに食欲が湧かない。 ソファに座って携帯電話を睨みながら思考回路を巡らせた。 (菅原さんはもう助手じゃないし、先に研究室に電話したから後出しで大城さんにお願いしても不審がられる) 携帯電話の画面に触れつつ、連絡用アプリの友達欄をスワイプしていく。 (俺が分からない時点で入山ちゃんや滝野達が知るわけもない。だとすると後は、、後は、) ピタ、と指が止まった。 「あ」 そこにきて、ひとつの名前に行き着いた。 登録名は「RIKA」と表示されているその人物は、確か義人を通じて仲良くなった友人の筈だ。 荒木里香(あらきりか)。 義人の通っていた美術予備校の同級生で、今は同じ静海美術大学に通っている女の子だ。 (試してみよう) 最早相手の都合になど構っていられない藤崎は、また一か八かで彼女のプロフィール画面を開き、電話番号を押した。 プルルルル プルルルル 「、、、」 すぐに呼び出し音が流れ始める。 プルルルル  ブッ 《はい?え、あれ?藤崎くん?》 「あっ、里香ちゃん?」 思っていたよりも早く通話は繋がった。 3年生になって登校時間や活動時間が被らなくなってめっきり会わなくなった相手だったが、何かと有名な藤崎を嫌がるような子ではない。 嬉しそうな声は元気そうで、とりあえず話しができそうだと藤崎はソファからラグの上に下り、研究室に電話したときに用意しておいたテーブルの上のメモとペンを自分の方へ寄せた。 《どしたのー?珍しくない?元気?びっくりしちゃったよお》 「久しぶり。ごめんね、夏休み中に。今少し話せる?」 《んー、話せるよ!どしたの?遊びの誘い〜?》 「あはは、ごめんね、どっか行こーとか言いたいとこなんだけど、佐藤くんがちょっとさあ、」 《えっ!?なに、どしたの!?そうだよ義人は!?》 相変わらずケラケラと良く喋るところには変わりがない。 少し騒がしくも感じる相手だが、藤崎自身は彼女が嫌いと言うこともなかった。 自分から「私ミーハーでうるさいから、やになったらそれとなく消えて!」と言ってくる程に、サバサバした女性だからだ。 「実は昨日佐藤くんが実家に帰ってからまったく連絡取れなくてさ、」 《え!?うんうん?》 「里香ちゃんて、佐藤くんの実家の場所とか連絡先知ってたりしない?」 《あ、実家かーーー》 「1日連絡ないくらいでそんなに気にする?」と突っ込まれそうだがそこはうまく回避するしかない。 変だとか何だとか言われてもいちいち気にしてダラダラと会話を続けられる程、今は余裕も時間もなかった。 「俺も心配し過ぎなんだけど、事故とかじゃないってだけ確認したくて」 はやる気持ちを抑えながら、藤崎は落ち着いた声で相手に話す。 胸中は、「頼む」と願うばかりだった。 《そうだよねそうだよね。一緒に住んでんのにひと言も言わないの心配だよね》 「うん」 《んーー、ごめんでも、うーん、ダメだ、予備校一緒ってだけで家族の話しとか聞いたことないし》 「そう、だよね、」 《んー、、、》 藤崎らしくない不安げな声が漏れてしまった。 メモを取ろうと握っていたペンをメモ帳の上に横向きに置くと、トン、とソファにもたれかかる。 ダメだった。 あとは、どうやったら義人まで辿り着けるだろうか。 《あ。麻子に聞いてみよっか?》 「えっ?」 ああ、そう言えばそうだ、と藤崎はソファから背中を離した。 友達よりも深い関係、今自分がいる位置に前にいた相手。 久々に聞いた義人の元恋人の名前に、ハッとした。

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