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第70話「疲弊」

「、、帰りたい」 そこまで考えて、やっと体が動いた。 もう嫌だ。全部夢にしてしまいたい。 それでも、帰ってどうなるんだろう、とまた身体が止まってしまった。 「、、、」 相変わらず自分のベッドの上にいる。 クーラーのない部屋で眠るには暑過ぎて起き上がったのだが、身体がベタベタしていて動くと余計に気持ちが悪かった。 昨日、飯も食わず、風呂にも入らず、おおよそ成人した人間が取る行動を全て忘れて眠っていたからだ。 (帰って、どうすんだ) それはあくまで逃げているだけで解決にはならない。 藤崎に謝って、別れようと言わなければならない事に変わりはないだろう。 そう思ったら、指先すらも動かなくなった、 (本当に別れないといけないのかな、、でも、お父さんもお母さんも、これ以上悲しませたくない) 昨日の泣いて苦しむ父親の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。 (でも、藤崎を、他の誰かに取られるのは嫌だなあ、、) 誰かが義人の場所をとって、藤崎に触る。 そんな事、冗談でも彼は想像すらしたくなかった。 (嫌だなあ。藤崎が誰かとキスするとか、セックス、するのとか、) 考えたくないのに頭に浮かんできた。 藤崎が誰かの名前を愛しげに呼んで、自分以外にあの笑顔を見せて、キスをして、肌を撫でながら服を脱がせて、愛していくところが。 「ッ、、」 女々しかった。 もう枯れただろうと思ったのに、結局涙が溢れて布団の上に落ちて行く。 そう言う仕掛けの人形みたいに、寝るか泣くかしかしていない無様な自分に嫌気がさしてきているのに、義人はただ考えて悲しむ事しか出来ずにいる。 (俺が同性愛者だから、藤崎や両親や昭一郎が苦しんでる) 膝にかかった掛け布団を両手で握りしめると、深い皺がいくつもできた。 「、、っう、」 八つ裂きにされているみたいだった。 もう心も身体もバラバラに千切れてしまっている。 あっちもこっちも八方塞がりで出られない。 家族を選べば藤崎と別れる。 藤崎を選べば家族が壊れる。 義人にとってはどちらも嫌で、どちらにしろ最悪の事態だった。 「帰りたい、、これ以上辛くなりたくない、、迷惑かけたくない、、消えたい」 帰ってどうするんだ。 藤崎と顔を合わせられないだろう。 なら、このまま自分は帰らないのだろうか。 このままならどうなるのだろうか。 (まさか、精神科に入院、、?) 義人は、病気なのだろうか、と自分を疑い始めていた。 だとしたらどうしたらいいのか、どうなっていくのか。 知らず知らずに自分が精神病で、都合の良い夢を見ていて、藤崎は本当は自分の事など愛していないのにそう思い込んでいて、巻き込んで、操って、彼の人生を壊してはいないか? そんなところまで妄想して、不安に思い始めている。 (どうしよう、どうしよう、分かんないよ、) 不安に胸が押し潰されそうで、思わず胸元に手が伸びた。 最初はゴシゴシと胸元を擦って、我慢できなくなるとガリ、ガリ、と首元を引っ掻き出す。 (別れよう、別れるしかない。俺、変だ。変なんだ、何か、なに、どうしたらいいの) 蓄積された不安が2度目の限界を迎えた。 気が済むまで掻きむしるしかなくて、義人は仕切りに指を動かして喉元を搔き壊していく。 こうする他に無い。 (藤崎、藤崎、ど、しよう。ごめんね、藤崎、ごめん、ごめんなさい。どうしよう、) ガリ ガリ ガリ 『大丈夫だよ』 「あ、」 手が止まったのはやはり頭の中に呼び起こされた藤崎の笑顔に安心したせいだった。 「、、抱、き、しめてよ、久遠」 いや、もうそれはできないだろう。 義人は寂しさが溢れ出した胸を押さえるように、今度は自分の両手で身体をギュッと抱き締めた。 藤崎にはもう、抱き締めてもらえないだろうと、切なくなって力を込める。 いや、正確にはもう、抱き締めさせてはいけないのだ。 (俺は変なんだ。だからお父さんは藤崎と別れろって言ったんだ、そうだよな。お父さん優しいから、あいつのこと気にかけて別れろって言ったんだよな) そうやって思い込めば、何もかも楽だった。 けれど行動が付いてこない。 義昭の言う事に従い、藤崎を想うなら、今すぐにでも「別れよう」と言うべきなのに、それができない。 現実味が付いてこない。 (別れたくない、別れなきゃ、でも、別れたくない) 訳が分からなかった。 「、、、」 コンコン ドアが叩かれる音がした。 机の上の時計は午後15時19分を指している。 昼食を取れと母が言いにきたのだろうか。 部屋から一歩も出ず、何も食べず、ベッドの上で過ごしているから。 「義人」 「ッ!!」 ビクッ、と肩が震える。 声は、義昭のものだった。 何故この時間に家にいるのだろうか。 まさか、今日はずっと家にいたと言うのだろうか。 ビリビリとした緊張が、背中から全身に広がって行き、しんどくなって義人は思わず耳を塞ぎそうになった。 「開けていいか」 鍵は締めていない。 けれど、入られたくない。 顔を見たくもない、怒られたくもない。 「ご、ごめんなさい、1人に、して下さい」 震える声で訴えた。 「、、開けるぞ」 「1人にして下さいッ!!」 無情にも、父の声は驚く程落ち着いていて、引いてくれそうにない。 けれどこちらも動く気にはなれず、会う気にもなれず、結局ドアが開く前に叫んでいた。 「ご、めんなさい、ごめんなさい、1人にして下さい、ごめんなさい」 ドア越しで、こんなに小さい声で聞こえるだろうか。 「義人」 追いつめるように呼ばれる名前が、嫌いになりそうだった。 カタカタと震える身体を強く抱き締めて、背中を丸めてうずくまる。 はあ、はあ、と無意識に呼吸が荒くなっていた。 「、、わかった。後で、大丈夫になったらでいいから携帯を持ってリビングに来なさい。いいね」 「、、はい」 何時になるか分からないのに、父はそう言った。 どうやら今日はずっと家にいるらしい。 珍しい事だった。 この言い方では17時半から朝まで続く当直でもないと言う事だ。 これは多分、義人の問題をまた家族で話す為に病院を休んだのだろうと思われた。 (それくらいに、迷惑をかけてるんだ、、) ズシン。 心と身体が、また重くなる。

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