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第73話「番号」

ふとした瞬間に見せられる笑顔とか、やたらと優しい触り方とか、一緒にいても家に帰ってくると絶対に「おかえり」と言ってくれるところとか。 お前がしてくれるほんの小さな事で、俺はすごく幸せになる。 なあ、藤崎。 俺はお前に幸せにしてもらってばかりで、お前がしてほしいことは何も出来なかった。 「、、い、ま、?」 喉の奥に詰まった嗚咽が漏れそうになった。 義人はまるで額縁の外からこの残酷な世界を見ているような、どこか他人事でどこか冷静なまま、静かに義昭にそう聞き返した。 携帯電話を持って来いと言われた意味がようやく理解できたが、理解したときにはもう遅く、最悪な事態が目の前に転がっている。 「今だ。お父さんもお母さんもついていてやるから、お別れを言いなさい」 今、この瞬間に、藤崎へ、別れを言う。 「ッ、、っ、、」 頭が理解を拒絶していて、義昭の吐いた言葉が義人の脳内でずっとグルグルと回っている。 ググ、と手の中の携帯電話を握り締めた。 体温が移って少し温まってしまった薄い板がバキッと音を立てて壊れそうなくらいに。 (今ココデ、藤崎ニ別レヲ言ウ、、?) カタカタと身体が震え出し、立っていられなくなった義人はゆっくりとフローリングの床に座り込んだ。 昨日から着替えていない、里音がプレゼントしてくれたTシャツと黒いズボン姿のまま、ドッ、と床に膝をつけ、右手に持った携帯電話を恐る恐る見つめた。 (嫌だ) せめて、まだ、もう少し待ってくれ。 ドクン、ドクン、と五月蝿い血流の音。 今何を考え、何を思い出していれば自分は壊れずに済むだろう。 手っ取り早い現実逃避の方法を考えたが、考えがまとまらずすぐに意識が現実に引き戻されてしまう。 「義人」 そして、逃がさないように追い詰めるように、義昭は義人の前に座り込んで肩に手を置いた。 「っ、ま、待って、ごめん、待って、」 「今しなさい」 「そ、そんな、」 静かな父の声だった。 同じようにしゃがみ込んだ母も義人の背中を優しく摩ってくれている。 2人は、大事な息子だからこそ自分達の思う正しい道に義人を連れ戻そうとしていた。 そこには痛いくらいの親の愛しかなく、これが異常ではなく普通の行動なのだと伝わってくる。 なのに胸は苦しくて、腕は言う事をきかなくて、身体はまったく動かなかった。 「義人、」 隣にいる咲恵はゆっくりと義人の背中を摩るのだが、彼はその手が微かに震えている事に気が付いてしまった。 久々に両親にこんなに身体を触られている。 小さい頃は当たり前に抱っこしてもらって、おんぶしてもらって、抱き締めてもらっていた手で。 (俺は、家族の恥なんだ) 耐え切れず、義人は無音で、ただツーっと涙を流した。 自分がここにいる全員の迷惑になっている事も、藤崎の人生を壊しかけている事もよくよく分かっているのだ。 ああ、いっそ、死んでしまいたいとさえ思うくらいに。 「お父さん、おね、がいします、待って、下さい」 それでも割り切れない気持ちがあった。 いつか決着を、いつか決着を、と思って昨日から誤魔化してきたこの気持ちは、どうしても藤崎を想っている。 他の誰にも渡したくない。 自分だけの人でいて欲しい。 俺が幸せにしたい。 そんな気持ちが諦め切れない。 「義人」 「、、、」 もう、いい加減にしろと言いたげな、厳しい視線がこちらを向いた。 それは酷く痛いもので、冷たく義人の心に触れてくる。 女々しい自分に腹が立った。 結局、藤崎を自由にしてやる勇気なんて持ち合わせていないのだ。 彼は泣きながら、横にいる母を見上げた。 「お母さん、助けて、お母さん、」 「義人、、義人、ごめんね」 そう言ってまた母も泣き出してしまった。 「お母さん、お願い助けて、お母さん、お母さん」 咲恵の服を掴んで縋るけれど、彼女は義人を見つめたまま両手で口元を覆い、ぼたぼたと大粒の涙を流して泣いている。 「お母さん、お母さん、お願いします、助けて、お母さん、お願い、お母さん」 「義人、お母さんを苦しめるな」 「ッ、お父さん、い、嫌だ、お願い、待って、お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい」 義昭の冷たい声と共に、彼の手で義人は咲恵から引き剥がされてしまった。 そして今度は父に縋りながらも、その視線に耐えられず、義人はその場で彼に頭を下げ、土下座をして謝り始めた。 「ごめんなさい、ごめんなさ、い、待って、お願いだから、待って。怖い、ッ、怖いよ、怖いんだよ」 別れたくない。 「ごめんな、さい、ごめっ、ごめんなさいぃ、待って下さい、お願いします、ッ、ご、ごめんなさい、!!」 気が付けば、肺を震わせながら咽び泣いていた。 (別れたくないよ、藤崎) 額をフローリングに擦り付けているせいか、溝の淵が当たって少し痛い。 義人は必死にズッズッと鼻水を吸い上げながら懇願した。 涙も何もかも、もうぐちゃぐちゃだった。 「義人、今、別れなさい」 「いやだ、お願いッ、お願いッ、!」 「今にしなさい。皆んないるから。大丈夫だから」 「お父さん、お願い、聞いて、お願いします、待って、お願い、」 「義人」 別れたくない。 好きなんだ。 「義人。藤崎くんのことを考えてあげよう」 「ぁ、、?」 目を見開いた。 頭を下げているせいで、すぐそこにあるフローリングが近すぎて焦点が合わない。 ぼんやりと暗いところを見ている。 (藤崎の、こと) 頭の後ろの方からゴオゴオと五月蝿い音が響いてきて耳が痛む。 頭も痛い、 ぽたん、とすぐそこの床に涙が落ちる小さな音が聞こえた。 「、、、」 もうやめよう。 「、、、」 自分の吐いた息が床に当たって跳ね返って唇にふわりとかかる。 温かい吐息は、キスする瞬間を思い出させた。 (もう、やめよう) じゃないと、ずっと藤崎の人生が悪い方向に傾いていく気がした。 男同士がこれだけ嫌がられる世界にいるのだ。 これから大学を卒業して、社会に出たときにそのマイノリティと差別、他人からの嫌悪感に苦しむのは自分達だ。 男同士で幸せになれる筈がないのだ。 子供もできず、同性で、共に老いて行くだけの人生を藤崎に送らせるのか? そう考えると、絶対に嫌だ、と答えはすぐに出た。 「、、お父さん、」 「うん」 「、、一緒に、いて」 「いるよ。義人のそばにいるからな」 顔を上げた義人がそう言うと、義昭自身も泣きそうになりながら、ズボンのポケットから取り出したハンカチで彼の顔を拭いた。 (俺は最初から同性愛者だったけど、でも、藤崎は違う。俺はこの先藤崎しか愛せなくても、アイツは違う。これ以上、アイツのこと、壊したくない) 諦めよう。 『義人』 頭の中にあるたくさんの記憶と、胸の中にある彼への想いさえあれば、きっと生きていける。 この先、他の誰かを藤崎が愛しても、きっと。 きっと、堪えられる。 「大丈夫だよ」 その声が頭の中にこだまする。 右手に触れる手は、懐かしい父の手だった。 (、、違う、なあ) それでもその温もりは、確実に欲しいものとは違っていた。 義人より少し高い体温で、温かくて、優しくて、父よりも少し大きな、ゴツゴツしたあの手ではない。 それが少し、悲しいんだ。 「、、、」 胸の前に持って来た携帯電話の電源ボタンを長押しして起動する。 白く画面が光ってしばらくすると暗証番号を打ち込んだ。 0827 藤崎の誕生日だ。 (お祝い、したかったな。プレゼントも買ったのに、もう、渡せない) 画面に映った藤崎からの着信は60回を越していて、連絡用アプリへのメッセージも同じくらいの数が来ている。 胸の痛みが消えたわけではない。 (心配してくれたんだ、) けれど奥歯を噛み締めて耐えて、せっかく拭いてもらったのだから、と泣くのも我慢して、義人は藤崎の電話番号を画面に表示した。 通話ボタンに指が触れれば、このまま電話が始まってしまう。 「義人」 もう、誰の声かも聞き取れない。 急かされるように呼ばれたな、とだけ理解して、義人は画面にトン、と指先を落とした。

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