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第81話「存在」
19時になっていた。
「、、、」
耳に当てた携帯電話から、初期設定のままの電子音が流れる。
プルルルル プルルルル
義人は義昭と咲恵とは目を合わせず、俯いて項垂れ、フローリングの溝を見つめていた。
嫌な空気だった。
彼は昔から、自分が怒られているときにその場を包むこの重怠くて気持ちの悪い、身体に纏わりついてくるような雰囲気が嫌いだった。
「、、、」
プルルルル プルル、
数回繰り返すとその音は不意に止み、少しの間を置いて、彼の声が聞こえた。
《佐藤くん?》
「ッ!」
声を聞いた瞬間、こみ上げてくる嗚咽にも似た想いの塊が、喉に詰まって苦しくなった。
愛しい。
例えようがないくらいに。
それは昨日と今日、この短時間の間に義人がどうしても聞きたくて、ずっと求めていた声だった。
ほんの数時間会っていないだけなのに、こんなに懐かしくて、そうして遠い声。
心配してくれているときの呼び方と声の低さに、心臓はバクバクと五月蝿く波打ち始めた。
「ぁ、、ふ、ふじ、」
ダメだ。
決意が揺らぎそうになる。
ダメだ。
泣いて縋って、助けて、と叫び出しそうだ。
ダメだ、ダメだ、ダメ、ダメダメダメダメ。
絶対に、泣くな。
平静を装って、誤魔化し切れ。
最後ならせめて、未練なく別れるから安心しろと、嫌っていいと、藤崎に伝えなければ。
義昭と咲恵に促されて藤崎に電話をした義人は、すぐに出た藤崎の声にまた涙が溢れそうになっていた。
《佐藤くん、今どこにいる?怪我とかしてない?》
落ち着いた優しい声。
自分を安心させようと言う話し方。
ああ、心配させたくなかったのになあと思ったが、義人は下唇を噛んで、痛みで何とか感情を誤魔化した。
「ちゃんと言いなさい」
目の前の義昭は義人を追いつめる視線で彼を凝視している。
逃げられないのだ。
そして、逃げてはいけなかった。
もう決めた事だからと義人は奥歯でわざと舌を噛んだ。
今ここで別れて全てを終わらせる。
そうすれば家族も藤崎も幸せになれるのだ。
揺らぐな、と言い聞かせるように、舌を噛む歯に力を込めた。
「ふじ、さき」
《佐藤くん、ちゃんと答えてよ。怪我とかしてないよね?》
「、、ん、悪い、」
トン、トン、と落ち着かせるように背中を優しく叩かれる。
「貴方と、友達のためだから」
母の声は優しく、そう、小声で聞こえた。
「ッ、、」
《佐藤くん》
言わないと。
これ以上藤崎を傷つけない為に、義人は言わないといけない。
「別れよう」とたったひと言だけ伝えれば全て終わるのだから、簡単な筈だ。
それで藤崎を永遠に守れるなら、大切にできるなら、正しいところに返せるなら、それで良い筈だ。
「藤崎、聞いてくれ」
言葉が詰まってうまく出て来ず、喉がずっと苦しい。
溢れそうになる涙を何度も引っ込めて、フー、フー、と自分を落ち着かせるように呼吸して、震えそうになる声を抑えて、義人は喋る。
《ん?》
藤崎の声は驚く程穏やかで、優しく、落ち着いていた。
まるでこの電話がかかってくる事を分かっていたかのように、ただ義人を気遣うようにしか喋らない。
「お、」
終わらせよう。
もう終りだ。
終わらせるんだ。
(俺のせいでアイツの幸せをとりたくない。この2年と少し、ずっと幸せにしてくれたから、だから今度は、俺が、、、俺が、そうするから)
「大丈夫」
肩に乗った父の手が、ぐっと力を入れて掴んでくる。
両親の愛は痛いくらい義人の胸を締め付けていた。
同性愛者の息子なのに、こんなにも愛してくれている。
自分は幸せ者だと、恵まれているのだと、義人は今、感謝する事しかできなかった。
(ありがとう)
2人ともそばにいてくれる。
怖くない、大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、大きく息を吸った。
「、、藤崎」
《うん》
「お、俺、たちさ、」
声がくぐもってしまう。
浮かんで来た涙が、じわじわと溢れそうになってきた。
鼻の奥がツンとして痛い。
リビングの中は恐ろしい程無音だった。
「俺たち、もう、」
《、、、》
「もう、ね、、もう、」
《、、、》
「も、、わ、わか、れ、」
嗚咽が絡む。
泣きたくなって、左手で頭を抑えた。
ヒュー、ヒュー、と変な音が喉の奥でしている。
「もう、」
もう、もう、もう、
《義人》
もう、、、?
嫌な音を立てていた心臓が一瞬凪いで、トクン、と色あざかやなときめきに変わった。
(名前、呼んでくれた、、)
その名前をどう言う顔で呼ぶか知っている。
2年と少しの間、ずっと愛を込めて呼んでくれていたものだ。
久しぶりに聞いた彼の声で呼ばれる自分の名前すら愛しくて、大切で、義人はそのとき時間が止まったように、胸の苦しさが消えている事に気がついた。
《義人》
「ッ、あ、」
目の前にいる義昭の顔が涙でにじんで見えなくなった。
聞こえるのは藤崎の声だけで、それがどうしてか、2人だけの空間にいるように思わせてくれる。
まるで目の前に彼がいるみたいで、名前を呼ばれるたびに先程とは比べ物にならないような愛しさが、諦めようとしていた義人の身体の中を塗り替えていく。
《義人》
今、笑いかけてくれている。
顔なんて見えなくても、義人にはそれが分かった。
「く、ぉ、ん、、」
情けない声で呼び返した。
涙も鼻水も垂れてきて、上唇に乗って、流れるように下唇に落ちる。
《義人。大丈夫だから、泣かないで》
「、、久遠っ」
ああ、それが、聞きたかったんだ。
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