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第82話「原点」
「久遠、」
涙が溢れて止まらない。
もう何も見えない。
色の滲んだ世界で、義人はどこを見ているのだろうか。
《義人、好きだよ》
「ッ!」
分かって、と言うように、教え込ませるように、藤崎はゆっくり、そしてハッキリと義人にそう言った。
込められるだけの愛しさと、大切なんだよ、と言う想いを乗せて。
《義人。大丈夫、俺がいるから。ゆっくり話して。ちゃんと聞いてる》
「っ、、久遠、」
終わりにしないといけないと言うのに、義人の喉からは最後の言葉が出てこなかった。
俯いていて気が付かないが、目の前にいる義昭は渋る義人に苛立って眉間に皺を寄せ、厳しい表情に戻ってしまっている。
それを見て少し急かすように咲恵が義人の背中を撫でるのだが、彼女自身、これでいいのかがよく分からなくなって来てしまっていた。
(義人、、ごめんね、義人)
ネットで調べていた中で、彼女は厳しい父親に育てられた息子、あるいは父親と確執のある息子が同性愛者になる場合が多いと言う記事を読んでしまった為に、義人のことを病気とまでは思っていないにしろ、彼が同性愛者になった原因は家庭にあると思ってしまっていた。
いや、思いたかった。
原因があるならば正せる、直せると思っているからだ。
どうしても息子がゲイだと思いたくなくてそう解釈し、素人の書いた無理のあるブログの内容に義人を当てはめて、改善の余地はあるのだと思いたかった。
けれど今、咲恵の心は揺れていた。
「久遠、聞いて、俺、もう」
こんなにも苦しんでいる。
昨日から何度も泣かせている。
部屋にいる間に掻きむしった首の痕や胸元のミミズ腫れを見て、彼女自身の胸が痛んで堪らない。
これが望んだ事なのだろうか。
夫である義昭は義人を病気だと言って聞かないし、彼を追い詰めるような事ばかりを言っている。
庇う事すらできないのは、間違っていないか。
彼が自分を傷付ける姿をもう二度と見たくなかったのではないのか。
脳裏に過ぎる数年前のボロボロになった自分の息子の姿がそこから消えなくなってしまっていた。
「もう、ど、したら、」
義人は肩に置かれた義昭の手に込められる力が強過ぎて、痛くて、何度も唇を噛んだ。
言え。
言わないと終わらないのだから、早くしろ。
そう自分を急かすのに、言葉は一向に、喉の奥に引っかかって出てこない。
《うん》
「もう、、だめ、もう、」
もう、?
何が言いたかったんだっけ。
喉からあの台詞が出てこない。
自分が本当にそれだけは言いたくないのだと、義人は思った。
『結婚を前提に、俺と付き合ってください』
藤崎のそんな言葉から始まった関係だった。
そこに辿り着くまでにも勿論色んな事があって、最初は藤崎が嫌いで、滝野を知らなくて、入山と遠藤とは同じ班で、麻子と言う彼女がいた。
結婚や子供の事なんて頭になく、なるようになるのだろうと、恋愛と言うものにあまり興味もなく、逆に何かを恐れていた時期。
それを覆した藤崎は、義人にとっての革命だった。
意志の強さも、考え方も、経験してきた事も何もかも合わないし違っているのに、それでも、距離を詰められて焦る事しか出来なかった彼を受け入れ、そのままがいいと褒めてくれ、あげくは好きだと言ってきた。
風も吹かない穏やかで静かな場所にある湖に、突如天から降ってきて、ボチャン、と音を立てて波紋を広がらせた大きな石。
例えが悪いが、そんな感じだった。
変わっていく事に恐怖して、自分の気持ちに目を瞑ろうとした事もあったけれど、義人は入山に背中を押された。
波紋を受け入れて藤崎のもたらす変化を好きになってから、世界はガラリと音を立てて変わっていった。
関わる人間の濃さ、関わり方の濃さ、日常の内容の濃さ。
追い付けなくなると藤崎が「休もっか」と隣から言ってくれる。
そんな毎日が堪らなく愛しく、かけがえのないものになった。
里音に侵食されていくクローゼットも、光緒が遊びにくると始まる藤崎との喧嘩も好きだ。
滝野のおふざけも止まらない弾丸トークも、入山と和久井とたまに出かけるのんびりしたダブルデートも、遠藤と「ガリガリ」「痩せっぽちののろま」とか悪口を言い合うのも。
全てが等しく愛しい義人の日常で、そして、藤崎あってこその時間なのだ。
「俺、」
考えてみれば、頼んでもいないのに藤崎は何度、義人に「好きだ」と言ってきただろう。
この2年と少しの間に毎日だ。
その毎日の1日の内に何回もだ。
ギネス記録が取れるのではないかと思うくらいに、自然に、優しく、溢れ出したと言いたげに、「好きだよ」と言われてきた。
重たく、「愛してる」と言われたのだって覚えている。
付き合って1年記念日のときだ。
義人の身体が別の男に辱められたときで、義人自身が自分が藤崎のものでなくなったような気がして苦しんだ日々だ。
毎晩うなされ、毎晩泣き叫んで起きる義人を抱き締めてくれた。
毎晩「愛してる」と言ってくれた日々だ。
もう悪夢は見なくなったけれど、あのときずっと支えてそばにいてくれた事は生涯忘れないだろう。
(そうだ、、)
考えてみたら、藤崎に「好きになってくれ」と言った事はなかった。
どんなときだって、彼が先に「好きだよ」と伝えてくれていたからだ。
頭がおかしいのはどっちで、洗脳したのはどっちで、先に同性愛に目覚めたのはどっちで、どっちがどっちを巻き込んだのだろう。
そんな事を考えてみても分からないし、自分と藤崎久遠の関係はそんな、巻き込んだ、巻き込まれたと言う虚しい愛だっただろうか。
紛い物だっただろうか。
『甘ったれるな』
遠藤の声が脳裏に蘇る。
1年記念日に藤崎の実家に行ったときの記憶だった。
義人はあのとき彼女に逃げるなと言われた事をこの1年間よく守ってきた。
菅原に甘い顔を見せたせいでつけ込まれた事を忘れず、藤崎のように警戒すべき人間との間に壁を築く事はできなくても、自分にそう言う面を求めて近づいて来る女の子達には注意を配っていた。
無論、インターン中に藤崎に言われた事も忘れていない。
里音の件だけは予想外過ぎて気がつく事ができなかったが、それ以外はきちんと拒絶と節度を持ってきたつもりだ。
それでも甘いと言われれば、藤崎が安心できるように勤めてきた。
逃げなかった筈だ。
誰にでも優しい、は藤崎に対して優しくないのだと分かったから、彼を1番にし続ける為に義人は頭を使うようになった筈だ。
自分が我慢すれば良いだとか、自分の身体を犠牲にすれば良いだとか、そんな風に思わなかった。
藤崎久遠が悲しむから、それだけはやらないで来た筈だ。
ならば何故今になって、こんなにも弱気になっているんだろう。
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