83 / 136

第83話「覚悟」

「、、、」 今までの2年と少しの日常と、藤崎久遠と言う人間。 義人は自分がそれらを貶め、苦しめてきたと本当に思っているのか。 今一度、歯を食いしばって思考した。 「久遠、、ッ、」 目の前の父の顔が割とはっきりと見えている。 厳しい顔で、こちらを睨むように見ている。 何度考え直そうとしても父が怖くて感情が飲み込まれ、うまく考えることができなかった。 恭次が言っていたように、義昭が自分に対して怒っていると思うと義人の頭は正常に動かないのだ。 目の前の義昭が怖い。 藤崎と別れるのも怖い。 何もかもが恐ろしくて、静かにこの状況について、自分がどうすべきかについて考えられない。 《義人、聞いて》 「俺、俺っ、、!!」 ただ延々と、家族が望むなら藤崎と別れようと思っている。 そして、藤崎がそれで幸せになるのだと言い聞かせられて、それを信じ込んでしまっていた。 (久遠の、幸せを、、) 喉から出ない「別れよう」と言う数文字の言葉が、自分の人生で1番幸せだった時間を終わらせるものだと思うとどうしても唇が震えて、舌が動かず、声を絞り出す事すらできない。 藤崎の幸せを願いつつも、義人は彼を捨てる事を躊躇い続けていた。 《義人》 鼓膜を震わせる優しい声が触れないところまで遠くなるのが恐ろしく、彼の特別が自分ではない他の誰かになる事が想像できない。 《何がダメなのか分からない。でも、聞いて》 やっと電話ができたと言うのに藤崎を突き離せないまま、義人は1人、そこで苦しそうに息をしていた。 しかし藤崎はそんな彼を察してか、ただ優しい声で間違えないように注意しながら、戸惑う彼の内側に触れた。 《俺は、何があっても義人が好きだよ》 「ぁ、、」 携帯電話を持っている手がカタカタと震えていたのだが、その一言でピタリと止んだ。 義人の身体の中はぐちゃぐちゃで、色んな感情が暴れ回り、真っ二つに引き裂かれてしまいそうだった。 (好き、、久遠が、俺を、何があっても好き) なのに、藤崎の言葉は容易に義人の意識をあるべき場所に引き戻した。 まるで魔法のように。 この数日でたくさん傷付けられた心が容易に癒えていき、それまでぼーっとしていた頭が急激に覚醒していく。 藤崎はいつだってこうして、簡単に自分を好きだと言うんだな、と変に冷静な頭の隅で思い返していた。 『俺はね、義人といられるならゲイってバレてもいい』 『俺はいつでも言える。義人が好きだ。心の底から、愛してる。誰よりも、世界で一番、大切で、愛してる』 ああ、そうか。 身体の中で暴れまわっていた、「別れないといけない」「別れたくない」と言う2つの想いがやっと止まった気がした。 《愛してるんだよ》 藤崎の言葉で、義人の正常に回る事ができていなかった脳が、急に熱をもって、思うようにガコン、ガコン、と回り出した。 父が怖くて、母に申し訳なくて考えないようにしようとしていた「藤崎の意志」が目に見えて、義人はいつもの彼に戻っていく。 物事を静かに考える事ができる彼に。 《何があっても、義人と2人で、人生の終わりまで歩きたい》 「っ、、ぅ、うっ」 遠藤の「甘ったれるな」、の意味がやっと分かった。 自分が昨日からずっと、藤崎に何も言わず、彼と話し合わず、家族に自分を否定されたくなくてただ泣いて、いじけて、塞ぎ込んでいるこの状況こそが、きっと、「甘え」だ。 1年前のあの日、自分を傷付ける姿を晒したとき、藤崎はそれが1番悲しいのだと義人に怒ってくれた。 義人が普段から誰にもゲイだとバレないように生きて、社会に出たときに差別されないように、周りにバレて孤立させられないように、 もしも別れたときいつかまた女の子と付き合う藤崎が困らないように、と、そうやって過ごして来た時間すらも、ことごとく全てが甘えなのだと義人は思った。 (覚悟がなかっただけだ) 不思議と涙は止まっていた。 義人は左肩に鼻を押し付けてダラダラと垂れていた鼻水を拭くと、電話の向こうの藤崎の言葉をちゃんと聞き、彼が言いたい事をきちんと頭に入れていく。 彼が決して、別れたいだとか、義人のせいで自分の人生が壊れていくとか言っている訳ではないのだと。 『ごめん。まだ、その日の事を想像できない。でも、いつかちゃんと、大声で、久遠が、、久遠が好きだって、胸を張って言えるようになるから』 義人は藤崎にそう言ったが、いつか、とはいつだろう。 親の意見じゃない、左右されない自分の本心は何と言っているのだろう。 藤崎はこうして今も、会えなくても、自分を好きだと言ってくれているのに。 (好き、も、愛してる、も、頼んだ覚えはない。いつも久遠から言ってくれる。俺だって、そう思ったときに言ってきた) 逃げないで前を向いて、本当にやりたい事が何だったかを思い出してみた。 頭の中は静かで、誰も自分を否定してはいない。 父の顔を見つめながら、唇を引き結んで、冷静になった頭で必死に考えた。 やりたい事をやる為に生きようと思ったから、静海美術大学に来たのではなかったか。 本当の自分でいられる時間ができて、本当の自分がやっと見つけた好きな人が、彼なのではなかったか。 (俺たちが過ごした2年は、嘘じゃない) 決められた道を行くのが嫌になった高校3年の始まり。 いつも好きなようにできないと悩む義人ではあるが、確かにあのときは、学校を休んだりはできなくてもやりたい事をやりたいと親に言う事はできたのだ。 本当に大事な事、これだけはと自分で決めた事は、ちゃんと貫いてきていたのだ。 (全部捨てたくない。家族も久遠も捨てたくない、、お互いが落ち着ける、納得できる着地点を探したい) 愛に確かな形はないけれど、捨てたくないなら捨てなくて良い。 信じたいなら信じれば良い。 誰かに何か言われるのは当たり前だ。 自分達は少数派の中にいる。 ただそれだけの話しではないのか。 (これまでの久遠と俺に嘘なんてない。そう信じてるから一緒にいたんだ。だから、俺1人でダメなら、2人で家族と話し合いたい) 藤崎は自分といたいと言ってくれている。 頼んだわけではないし、彼が誰かに洗脳される程、弱い人間ではないと義人は誰より分かっている。 家族の恥だと言われても、恥ではないんだと彼と共に立ち向かう権利はある筈だ。 (もう1回、話し合いたい) 「、、久遠」 落ち着いた声で彼を呼んだ。 《うん》 「ごめん」 《うん》 いつか、とはいつだろう。 もしもここで運命が変わるなら、藤崎といる人生が押し潰されそうになっているのなら、ここで言わないでどうするんだ。 彼をなくさないために、今、世界に精一杯抗うべきだろう。 「ごめん、」 再び涙が溢れたけれど、もう怖くはなかった。 理解し合うのが無理なら、せめて両親に諦めて欲しいと思った。 文句を言っても良いから、引き剥がすのはやめて欲しいと思えた。 それならいっそ、捨ててくれ。 藤崎と一緒になら、と前を向けるから。 「き、嫌いに、なれないッ、ごめん、親に、お父さんに別れろって、言われたんだけど、でも、ごめん!!」 「ッ、!?義人!」 突然叫んだ彼に驚き、義昭は目を見開いて身体を震わせた。 怒りと絶望と驚愕が入り混じって、幾分か反応が遅れる。 《義人》 父親に名前を呼ばれ、肩を揺すられたけれど、彼にはもう藤崎の声しか聞こえていなかった。 《義人、愛してる、義人》 「ごめん、ごめん!!俺がお前の人生壊してるかもしれない、でも、嫌いになれない、別れたくない!!」 その心にだけは嘘がつけない。 「久遠が好きだッ!!」 彼らしくもなく、精一杯に叫ぶ。 ソファから立ち上がった昭一郎は、義人を見ながら唖然としていた。 「義人、いい加減にしなさい!!お前、この!!それを離せ!!」 「あッ!!」 腕を伸ばした義昭から逃げようとした瞬間、思い切り髪を掴まれる。 手に持っていた携帯電話を掴まれ、奪い取られそうになった。 「や、やめて、久遠ッ!!」 服を引っ張られても、髪を鷲掴みにされても抵抗を続ける。 咲恵は呆気に取られてその場にぺたんと座り込んでしまい、ソファの前にいた昭一郎は慌てて義人と義昭に駆け寄ってきた。 「お父さん止まって!!待ってよ!!」 「この馬鹿息子!!このッ!!」 携帯電話を握る右手を掴まれる。 爪を立てられながらも、義人は必死に叫んでいた。 「久遠ッ!!」 《義人!!迎えに行くから、だからそれまで、》 「この馬鹿息子!!お前に期待した私が馬鹿だった!!」 「久遠、久遠ッッ!!」 思い切り髪を引っ張られて上を向かされる。 とうとう携帯を奪われた。 「久遠ッッ!!」 「黙れ!!」 奪い返そうと立ち上がった父に縋りながら手を伸ばしたが、パンッ!!と、また頬に痛みが走る。 床に手をついて頬の痛みに耐えながら見上げた先の義昭は、激しい怒りに満ちた目で義人を見下ろし、睨み付けていた。 「このッ、恥を知れ!!男同士で何をしようとしてる!変態が!!馬鹿息子!!親不孝にも程があるッ!!」 「久遠!!」 「ッ、、おい、藤崎とか言ったな!!」 そのまま奪い取った携帯電話に向かって、義昭は怒声をぶつけた。 「金輪際うちの息子と関わるな!!いいか!?迷惑だ!!君も君でご両親にどんな迷惑がかかるか考えろ!義人とはもう会わせないからな!!大学も辞めさせる!!いいな!?」 そうとだけ言って、通話終了のボタンが押された。

ともだちにシェアしよう!