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第84話「父親」

「お前は我が家の恥だ」 まるで鈍器で頭を殴られたようだった。 それくらいの衝撃が走って、急に呼吸ができなくなっていく。 けれど義人はやはり間違えたとは思えなかった。 重たい空気。 張りつめたそれが冷たく凍り付いて、肌にあたると痛く感じた。 「、、、」 やはり、恐ろしいものは恐ろしい。 見下ろしてくる父は、本当に怒っている。 隣に座り込んでいる母は義人と同じように床に膝をついて泣いている。 昭一郎は義人達のそばに来たあたりで立ち止まってしまっていた。 「、、、」 「ふざけてるのかッ!!」 バンッ!!と、奪い取られた携帯電話が床に叩き付けられ、リビングには不穏な空気が満ちた。 壊れたかもしれない、と義人は静かに思った。 思いながらまた服の袖で鼻水と涙を拭いて立ち上がる。 「お前は、私を失望させてどうしたいんだッ!!!」 パンッ!! 「っ、」 振り上げられた手が頬をぶった。 痛みが広がったけれど、やり返す事は彼にはできない。 歳を取った自分の親に手を挙げられるほど、彼は心を鬼にする事はできないのだ。 昨日から、もう3度目だと冷静に考えている自分がいてどこかホッとする。 藤崎と少しでも話せたからか、彼といるときに感じる自信も、冷静さも、義人の中に戻ってきていた。 「恥さらし!!高い授業料や入学金を出して美大に行かせてやったのに、恩を仇で返したな!!」 「、、、」 どうしようもなく、怖い。 怖くて、痛くて、仕方ない。 見開いた目に映るその顔は、怒りと憎悪が滲み出ていて、身体の震えを抑えられなかった。 「、、ゲホッ、ゲホッ」 無理して吸っている空気を肺が拒絶して、義人はむせ返ってしまった。 流れ続ける涙と、だらしなく出てくる鼻水はひっきりなしで、昨日からずっと着ているTシャツで拭うしかない。 義昭以外は黙り込んでいて、部屋はシンとしていながらも怒声だけが響いていた。 「馬鹿息子ッ!!」 パンッ!! 叩かれるたびに痛みでどうしようもなくなって口からしたたる唾液を手の甲で擦ったが、もう手にあまり力が入らなくて全て拭き取る事ができなった。 壊れているみたいに、見上げる以外の動作に威力が出ない。 義人は突っ立ったまま、ずっと頬をぶたれ続け、そして無言でそれに耐えた。 「、、、」 「何にも言えないのか!!義人!!」 「、、俺は、」 理解されないのは当たり前だ。 もうそれは分かっている。 藤崎と話したから、割り切れている。 「お父さん、俺は、ゲイだけど、でも、」 でも、なに? 何が言いたい。 「ゲイだけど、でも俺は貴方の息子なんだよ」 義人は赤く腫れた頬を庇いもせず、痛がりもせず、ただ泣きながら真っ直ぐと義昭を見据えてそう言った。 「もう、許してください。貴方や昭一郎みたいに、完璧にはなれない」 「ッ、、!」 ああ、そうだ。 押し付けられるのが、もう嫌なんだ。 義昭はポカンと口を開けて黙った。 彼が追い詰めに追い詰めた息子の姿に、本心に驚愕して、動けなくなっている。 「兄ちゃん、、?」 昭一郎はその穏やかでどこか寂しそうな義人の笑みを見て、何故かぼたぼたと涙をこぼしていた。 「俺は、頭は悪いし、医者にもなれない。貴方が求める息子にはなれないんだよ」 「な、なにッ、」 グ、と奥歯を噛み締める父。 揺れる視界でそれを見ながら、義人は困ったように笑って見せた。 「もう、勘弁してください」 やっと、父親の前で見栄を張る事も、怖がって本心を隠す事もなくそれが言えたと思った。 ずっとずっと抱えてきた、植え付けられた苦しい劣等感を吐き出せた。 毒の塊が身体からどろっと溶け出して出て行く。 やたらとスッキリした。 堪え難かったのだ。 弟の反面教師と家族に言われ、家族からの失望の視線を浴び続ける事も、それでも家族だからと、血を別けているからと、無理に愛してくれる事も。 家族内で1人だけ、まるで家族でないような感覚も。 怖かった。 壊れそうで。 自分が壊されそうで。 これ以上壊されて、どうなるかが分からなくて、怖かった。 「、、、、」 義昭はもう一度手を振り上げたものの、それを義人の頬に当てるでもなく、力なくフッと下に下ろした。 「、、、」 今、自分の父親の中で何が起こっていて、今の言葉がどう解釈されるかは分からない。 けれど、理解されなくても、考える事をやめても、義人はこう言う生き物なんだと諦めてもらえるのではないかと思った。 「わかった」 「、、、?」 悲しげな沈んだ表情をする義昭を見つめ、義人は彼の答えを待った。 もしもそれでも何か言われるなら、藤崎を呼んで、2人で家族と話そうとまで決めていた。 けれど、 「やっぱりお前は、病院に入れる」 義人が思っていた程甘くもなく、義昭はもう冷静に考えられるような状態ではなくなっていた。 「精神科に入れて、治してもらう。明日、すぐに連れて行ってやる」 「お父さん?何言ってんの?」 義人に向けられたのは優しい目ではなく、病的で、どこも見ていない目だった。 昭一郎が思わず父に駆け寄り、背中を摩りながら落ち着かせようとしている。 「お父さん、1回落ち着こうよ。兄ちゃんは病気ではないから、そうじゃなくて、」 反対しながらも、昭一郎も分からなくなっていた。 病気でないなら、自分は何故義人の事を母親に相談して、それが父にバレてここまで大事になっているのだろかと。 同性愛者とは何がそこまでダメなのだろうかと。 気持ち悪いと思ってしまう自分は何なのか。 病気でもない、犯罪でもない、だったら、自分は兄の何をそんなに受け入れられなかったんだろうか。 (そうじゃなくて、何だ。俺、何か言える立場か、、?) 父が苦しむ顔も、母が悲しむ顔も見たくはなかった。 けれど、昭一郎は兄の泣き顔も見たくはない。 (あれ、あれ、?) 昭一郎は黙ってしまったが、義昭と義人の間に流れる空気は変わる事がなかった。 「大丈夫だからな」 ただ温かく、何かよく分からない感情が込められた気持ちの悪い声で話しかけてくる父が、義人は恐ろしくなってきていた。 いや、それが、先程とは違う恐ろしさなのだ。 「、、お父さん?」 どこを見ているの、と聞きたくなった。 自分を見ていない目で、話しているのも自分に言っている言葉ではないんだと気がつくと、義人の瞳が不安な色で揺れる。 (自分に言い聞かせてるんだ) 時折り義人を庇うような、お前は悪くないと言う言葉を言いつつも結局は誰かを悪者にしようとしている父が、誰かを犠牲にする事で自分を守ろうとしているのだとそのとき彼は気がついた。 本当は自分が義人の恋愛について認められない許容量のなさと、同性愛を許せない、受け入れられない意地で雁字搦めになって、自分の息子がそんなものの訳がないと、親として、男として、古い頭を持った人間としてのプライドを守ろうとしているのだと悟った。 そして、頭が冷めていった。 (弱い、、こんなに、弱かったっけ、?) 義人の恋愛から。 いや、それよりももっと前、義人が美大を目指すと言って医者の道をやめたときから、もっとずっと前から、義昭はずっと「息子を立派に育てられなかった自分」がそこに現れる事を拒絶していた。 自分と同じように厳しく育てれば同じように医者になってくれると思っていた存在がそうはならず、見た目は義昭だが、性格は咲恵にそっくりに育った昭一郎の方が医大に入ってしまった。 義人に散々厳しくして誰より時間をかけて勉強させてきたのに、義昭は義人を医者にする事に「失敗」したのだ。 現状の義人に、今度は立派な男にする事に「失敗」したと感じている。 彼はずっとその「失敗」を責められる事が恐ろしいのだ。 それからずっと、逃げているだけなのだ。 「お父さん、、諦めて下さい」 「大丈夫。大丈夫だからな」 「お父さん、お願いします。俺の話しを聞いて、」 抱きしめられる体。 痛いくらいに力が込められている。 伝わってくる体温は、懐かしい父のものだ。 変わらずそこにあってくれる、憧れで、カッコいい、いつまでも目標で、優しい大人。 その筈なのにこんなにも、今はこの体温が他人に思える。

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