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第85話「名前」

19時になっていた。 「藤崎、どうする?」 鳴り響く携帯電話を見ながら入山は藤崎にそう言った。 その場の全員、前田までもが不安そうな顔をしている。 「、、皆んなは少し静かにしてて欲しい」 「分かってる。久遠、落ち着いてな」 「もしすぐ迎えに行くようなら前田の車出すから言って」 「ありがとう、、出るね」 恭次も背中を嫌なものが引っ掻いているような変な感覚がしていた。 このタイミングでの義人からの連絡となると、もう帰るからと言う電話か、家にいるのに藤崎は何故いないのかと言う電話か、あるいは、と、藤崎はいくつかある可能性の全てに覚悟を決めて、うるさい胸を落ち着かせながら携帯電話を持ち上げ、画面の通話ボタンを指先で軽く押した。 響いていた呼び出し音が止む。 「、、佐藤くん?」 もしかしたら、電話をかけてきているのが義人ではない可能性だってあった。 藤崎は落ち着いた出来る限り優しい声で彼を呼んだ。 恭次宅は線路からも駅からも離れていて静かで、部屋の中にいる全員が黙ると、シン、と物音がしなくなる。 《ぁ、、ふ、ふじ、》 「っ、、」 その藤崎の耳元に、彼の声が響いた。 義人の声だ。 か細くて、震えていて、怯え切った彼の声だ。 「ッ、、」 藤崎は下唇を噛んで、あぐらをかいた自分の膝を右手で掴み、グッと力を入れた。 ダメだ。 やはり、最悪の展開になっていたのだとすぐに察してしまった。 「佐藤くん」 しかし、それで狼狽えている場合ではない。 こう言う事になっているだろうと思って西宮のところまで来たのだ。 住所は分かった。 電話番号もすぐに手に入る筈だ。 あとは、義人の状態をきちんと確認して、話し合わなければいけない。 今どこにいて、怪我とかはしていないか、閉じ込められているわけではないか、事故などではないか。 聞かなければならない事は多い。 義人が弱っているだろうこの状況で、藤崎自身が折れるわけにはいかないのだ。 「今どこにいる?怪我とかしてない?」 とにかく安心させようと、自分は味方だと言うように優しい声で話しかけ続ける。 彼の意識をこちらに向けなければ、と藤崎は思っているのだ。 そうじゃないと、義人は話しを聞いてくれない。 暗い意識に沈み込んで出てきてくれなくなるからだ。 《ふじ、さき》 「佐藤くん、ちゃんと答えてよ。怪我とかしてないよね?」 《、、ん、悪い、》 義人が何か言おうとしているのは分かっているが、話そうとするたびによく聞き取れない声が電話の向こうで彼に話しかけているのが聞こえた。 雑音のように聞こえたが人の声だ。 こちらに聞こえないように義人に何かを言い聞かせているようで、藤崎は気分が悪くなった。 (佐藤くんの、親、、?) 嫌な予感が膨らんでいく。 滝野と入山と順番に目を合わせる。 彼らも不安げで、そして焦っているように見えた。 藤崎の表情から、あまりいい状況にはないのだと分かったらしい。 「佐藤くん」 《藤崎、聞いてくれ》 呼吸音が聞こえる。 苦しそうな音だ。 痛々しくて聞いていられない。 「ん?」 藤崎は無理矢理に、焦る事なくいつも通りに振る舞うよう心がける。 そうしないと余計に義人を追い詰めるような気がした。 《お、、、、藤崎、》 「うん」 《お、俺、たちさ、》 声がくぐもってきた。 泣いているのか。 この1日の内に一体家族に何を言われたのか。 最近は菅原とのあの夢も見る事がなくなって、ずっと楽しそうでいてくれたのに。 やっとトラウマが消え掛かっていたのに、どうしてまたそんな声を出すのか。 (何された、、何で泣くの。何で、) 何で俺は隣にいない。 膝を掴む手が肌に爪を立てた。 義人にこんな声を出させているのも何もかも自分ではないか、と藤崎は自分に対しての苛立ちを再び感じ始めている。 《俺たち、もう、》 そんな悲しい声で、悲しい言い回しをしないで欲しかった。 《もう、ね、、もう、》 何を言おうとしているのか何となく読める。 悲しくて、悔しくて、藤崎が右手に力を込めると、隣にいた滝野がその手をバシンッと膝から払い除けた。 「っ、」 「取り返すぞ」 「、、、」 《も、、わ、わか、れ、》 嗚咽が絡んだ、ヒュー、ヒュー、と苦しげな息。 それを電話越しに聞きながら、右手の痛みを握り締めて、藤崎は滝野を見つめて頷いた。 《もう、》 「義人」 そうだ、取り返すんだ。 迎えに行くんだ。 滝野の言葉で冷静さを取り戻した藤崎は、ただ愛しそうに彼の名前を呼んだ。 「義人」 ずっと呼びたかった。 ずっと触れたい。 会いたい。 帰っておいで。 そう言うように、胸の中の何より大きい彼への想いを精一杯込めて、丁寧に名前を呼ぶ。 《ッ、あ、》 「義人」 名前を呼べるだけで嬉しくなって、藤崎は口元を緩めていた。 昨日と今日と、返事を返してくれる人がいなかったのだ。 「なに」と言い返す声はなくても、その名前の持ち主が電話の向こうにいるだけでも、藤崎は今とてつもなく嬉しかった。 《く、ぉ、ん、、?》 そして泣きだした少し掠れた声で名前を呼び返される。 それで、義人はまだ自分の方を向いてくれる筈だと確信した。 「別れよう」と言い掛けたのは分かっている。 けれどそれが義人の本心だと思えない限り、藤崎は彼を手放す気はなく、こんな形で恋人を終わらせる気もなかった。 「義人。大丈夫だから、泣かないで」 《、、久遠っ》 ああ、それが、聞きたかったんだ。

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