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第86話「察知」

《久遠、》 顔を見なくても、義人が心細いなら分かる。 そばに居なくても、義人が辛かったら分かる。 誰より彼のそばにいて、彼の事を分かっていて、彼の好きな人で、恋人と言うその位置が、藤崎は出会ったあの日からずっと欲しかったのだから。 高校3年のとき、顔の良さで人が寄ってくる自分の世界が虚しくて気持ちが悪く、女性受けを悪くしたくて藤崎は髪を伸ばした。 一応彼女もいたけれど、その頃にはもういてもいないような感じだった。 高校の始めに問題を起こして当時付き合っていた恋人にフラれた藤崎は、誰かを好きになりつつもすぐに飽きてしまう。 自分でも良く分からないくらい、人としてしてはいけない事をする人間になっていた。 そんな自分も嫌いで、ただそうやって人から嫌われれば、性欲にまみれた見栄や嫉妬ばかりの忙しなくて汚い世界が遠ざかって少しは気が晴れるような感じがしたのだ。 藤崎は静けさを求めていた。 そんなとき目の前に現れた義人は、藤崎にとって初めての感覚を彼に与えた人だった。 義人は、静海美術大学受験の実技試験だったあの日、静かで、頼りなくて、自分だって震えているのに頑張って藤崎に声をかけてくれた。 予備のデッサン道具を持ち歩くくらい慎重な人間が、こんな汚くてガタガタと動作のうるさい一風変わった人間に話しかけてくる勇気とはどの程度のものなのだろうと思った。 それを乗り越えて助けてくれた人だった。 静けさを纏ったような弱々しい笑顔が、この世の何よりも美しく見えたあの日から、彼を諦めると言う選択肢は藤崎の中にはなかった。 「義人、好きだよ」 何度言っても足りないその言葉を、恭次の家のグレーのラグを見つめながら、愛しそうに、俺の気持ちを分かって、と言うようにハッキリと藤崎は口にした。 (藤崎くん、、) 恭次は、義人の選ぶ人なら良い人だろう、と藤崎の事を思ってはいたが、ここまで彼を想う人間なのだとそのときその言葉を聞いて理解して、そして安堵した。 自分は前田と言う少し、と言うよりだいぶ変わった人間に出会ってしまったが、藤崎はまともで、真面目過ぎる義人の事もきっとちゃんと思いやって器用に隣にいてくれるだろう。 彼の真剣な顔を見つめながら固まっている前田をチラリと眺めて苦笑して、恭次はまた藤崎を見た。 通話している義人の声は聞こえない。 けれど、良くない状況なのは分かる。 「義人。大丈夫、俺がいるから。ゆっくり話して。ちゃんと聞いてる」 《っ、、久遠、》 電話の向こうの義人は縋るような声だった。 今すぐ抱き締めたいと思うけれど目の前に彼はおらず、グッと胸の奥が重たくなるのを感じながら、藤崎は掠れる義人の声を注意深く聞いた。 《久遠、聞いて、俺、もう》 苦しんでいる。 何かに怯えている。 また、自分を傷付けていなければいいのだが、と藤崎は不安になった。 《もう、ど、したら、》 「うん」 《もう、、だめ、もう、》 「別れよう」と言おうとしている。 いや、言わされようとしている。 この2年と少しの間で何度も「好きだ」と伝えたのにどうしてそんな悲しい事を言うのだろうか。 「、、、」 いや、きっと抵抗してくれたんだ、と藤崎は思った。 義人だってこの数年間で藤崎への想いを大きくして信頼だって深めてきたのだからきっと、「別れたくない」と彼の両親に抵抗したに違いない。 けれどそれを打ち破る程強く、厳しく彼を責め立てて、こんなに泣かせるくらい追い詰めたに違いない。 考えれば考える程、腹立たしかった。 義人の両親に対しても、自分に対しても。 負けて欲しくはないけれど、藤崎は自分と義人の違いも分かっている。 育った環境、育ち方、見てきたもの、経験してきた全てが違う。 藤崎の両親のように楽観的で放置癖のある親と違い、義人の両親が愛情深く、生真面目で、言ってしまえば堅苦しいのも分かっている。 そこで育った義人がいつも何かに縛られている事ももちろん誰より理解しているし、彼の抱える「優しすぎる」と言う弱さもまた、充分に承知していた。 《俺、》 だからと言って、これは違う。 《久遠、、ッ、》 その弱さに漬け込んで、自分の息子がこんな風になるまで追い詰めて、無理矢理に恋人と別れさせるのは違う。 「、、、」 同性愛がどうのこうのと言いたいのは、義人にもその節があったから藤崎は受け止める覚悟をしていた。 きっと義人の両親には受け入れられない事も、それを分かっていて義人が自分の両親に何も話さないのも、もし全てがバレたときに否定される事も覚悟していた。 藤崎の周りの人間達は寛容過ぎるから、その逆の人間がすぐそばにいる事がどう言う事か、きちんとずっと身構えていたのだ。 もしその日が来たとしても、義人を離さず、義人に離されないように努めると決めていたのだ。 そして、それが、今だ。 「義人、聞いて」 迎えに行く。 絶対に離さない。 そう固く心に決めて、藤崎は力強く言った。 《俺、俺っ、、!!》 「義人」 ここで彼を離してしまえば、義人がずっと後悔する生き方をするだろうと藤崎は思っている。 自分と別れて他に好きな女の子ができても、また男に恋をしても、結局親の言いなりで、自分の心がない人間になってしまうだろうと。 恭次から聞いた彼の親の話しから察しても、その想像は容易にできた。 当然離す気はないが、藤崎は義人に義人自身を選んで欲しかった。 また自分を傷付けるなんて、絶対にして欲しくなかった。 「何がダメなのか分からない。でも、聞いて」 誰がどんなに否定してきても、自分だけは側にいる。 だからもっと自信を持って、笑っていていいんだよ、と言いたい。 それが骨に溶け込むくらい理解出来れば、きっと彼はこう言う事態になっても前を向いてくれるようになる。 だから、藤崎がやるべきことは一つだった。 「俺は、何があっても義人が好きだよ」 《ぁ、、》 例え、家族を捨てたとしても自分がいる。 例え、家族に捨てられたとしても自分がいる。 帰る場所があるのだと分かって欲しい。 彼がいつものように落ち着いて冷静に何かを考えられるような状態ではないのだと分かっているからこそ、藤崎はそれだけを強く伝えた。 それがちゃんと義人の胸の奥に届くと信じていた。 「愛してるんだよ」 はたから聞いていれば恥ずかしい言葉の羅列かもしれないが、今ここで、彼らを笑う人間など誰もいないのだ。 藤崎は精一杯の気持ちを込めていて、恭次と2人きりの時間を邪魔されて不機嫌だった筈の前田まで、泣きそうな顔をして彼を見つめている。 午後19時20分前になった。 近くの公園で誰かがテニスの壁打ちをしている音が恭次の家にまで響いてくる。 「何があっても、義人と2人で、人生の終わりまで歩きたい」 帰っておいで。 君が帰る場所は自分がいるここだ、と藤崎はずっと頭の中で唱え続けていた。 《っ、、ぅ、うっ》 ゴクン、と唾やら色んなものが絡んだものを喉の奥へと押し流す音が聞こえた。 小さなくぐもった呻き声を最後に、義人はピタ、と黙り込んでしまった。

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