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第87話「怒り」

藤崎はただ待った。 きっと今、義人はやっと色々冷静になって考えられるようになったのだろうと察していた。 呼吸は落ち着いたらしく、電話からは聞こえなくなっている。 テニスのボールが弾む音だけが遠くから部屋に入ってくる以外は全くの無音だ。 時折り誰かが唾を飲む。 藤崎は小さく、フー、と鼻から息を抜いた。 《久遠》 「うん」 聞こえたのは、義人の落ち着いた声だった。 《ごめん》 「うん」 何も悪くないのだから、謝らなくて良いのに。 そう思いながら、実家へ出掛けて行く前に父親からメールが来た事に喜んでいた無邪気な義人の笑顔が脳裏をよぎって行った。 何でこう言う事になるんだろう。 付き合いながらも義人の両親にはバレないようにと逃げ続けていたツケだろうか。 けれど一体このご時世で、付き合っている人は親に紹介しなければいけないと言う決まりはあるだろうか。 多様性と個人の尊重を考えるならしなくていい筈だ。 言わない事は罪ではない。 特に、義人と藤崎の場合はそうだ。 義人の両親が彼らを受け入れないとお互いに分かっていたし、もし知られたとして、何か義人の身が危険に晒されるような事が起きそうだからと避けてきたのだ。 《ごめん》 謝ってはいるけれど、先程違って、「義人が話している」と言う感じがする。 彼らしく芯の入った声に安堵しながら、藤崎は言葉を待った。 《き、嫌いに、なれないッ》 「?」 義人と会えなくなってから彼がずっと抱いていた嫌な予感は的中していた。 《ごめん、親に、お父さんに別れろって、言われたんだけど、でも、ごめん!!》 《ッ、!?義人!》 何も「ごめん」なんて言う理由が見つからない。 藤崎は義人のその言葉を聞き、通話口から彼の父親らしき人物の声がハッキリと聞こえた瞬間、カッと脳裏が熱くなるのを感じた。 グツグツと腑が煮えくり返る。 身体中を流れる血が燃えている。 「別れろ」? 冗談じゃない。 怒りが全身に回って、ギッと彼の右手の拳に力が入ったのが見えて、それまで黙っていた滝野が藤崎に近づき、携帯電話に耳元を寄せる。 これはまずい方向に話しが向かっていると部屋の中の全員が落ち着かない体勢になり、入山もまた、同じように藤崎のそばまで来た。 「義人、」 必死に義人を呼んだ。 怒りを抑え、愛しいと言う感情を込めた声で。 「義人、愛してる。義人」 《ごめん、ごめん!!俺がお前の人生壊してるかもしれない、でも、嫌いになれない、別れたくない!!》 滝野の耳にも入山の耳にも、義人の苦しげな叫びが届いている。 入山は滝野に不安な顔を見せたが、彼は冷静に、何か言おうとした彼女を「シッ」と口元に人差し指を当てて黙らせた。 《久遠が好きだッ!!》 藤崎にとって、やっと聞けた台詞だった。 いつか言うから、と言うあの約束が果たされたのだと思った。 そしてそれと同時に、今、彼がこれを言わなければならない状況にいるのだと藤崎も滝野も入山も察した。 我慢強い義人の泣いて叫ぶ声を聞いて、大学生が考えられる限界まで危険な事を考えて、入山は泣きそうな顔になってしまっている。 藤崎は奥歯を噛み締め、拳を握り締め、今すぐ助けにいけない不甲斐なさと悔しさと苛立ちを、とにかくどこかで出し切ろうとしていた。 (何でこんなことに、!!) 焦っても、怒っても、どうしようもない。 ただ聞いている事しかできなかった。 《義人、いい加減にしなさい!!お前、この!!それを離せ!!》 《あッ!!や、やめて、久遠ッ!!》 電話の向こうが騒がしくて、何を言っているのかが良く聞き取れない。 ガサガサと雑音が混じって義人の声を邪魔しているのだ。 「義人!義人ッ!!」 藤崎が呼び掛けても返答がない。 《この馬鹿息子!!このッ!!》 そして彼の父親だろう男の怒声だけが、はっきりと聞こえてくるのだ。 《久遠ッ!!》 「義人!!」 耐え切れず、藤崎は前屈みになって握り締めた右手をラグの上についた。 力を入れ過ぎて、身体がガクガクと震えている。 「迎えに行くから!!だからそれまで、」 《この馬鹿息子!!》 「ッ、ダメだ、聞こえてない、、義人ッ!!」 叫ぶのに、微かに自分を呼ぶ彼の声が遠い。 「義人!!義人ッ!!返事して、義人ッ!!」 「久遠」と微かには聞こえるのだ。 けれどそれ以外は何を言っているのか分からない怒鳴り声と、ガサガサ、ガタガタと言うようなノイズで埋め尽くされている。 耳が痛くなりそうだった。 そして、パンッ!!と、肌と肌が当たるような音が聞こえた。 「ぇ、」 入山が口元を手で覆い、ぼたぼたと涙を流している。 藤崎は目を見開いて、ピタッと震えが止まった自分の右手の浮き出た血管を見つめた。 《このッ、恥を知れ!!》 一瞬の沈黙の後、そんな声が聞こえた。 《男同士で何をしようとしてる!変態が!!馬鹿息子!!親不孝にも程があるッ!!》 《久遠!!》 「っ、義人ッ!!」 何がどうなっているのかがまるで分からない。 まさか、殴られたのか。 ドラマの効果音でしか聞いた事がないような頬のぶたれる音に驚きながらも、今度は確かにノイズなしで聞こえた義人の声に応える。 けれど届いていないのか、返事は別の人間の声だった。 《おい、藤崎とか言ったな!!》 「、、、」 これが、彼の父親だ。 藤崎は瞬時に構えて、何とか「話しをさせて下さい」と切り出そうとする。 けれど、義昭の怒声は止む事がなかった。 《金輪際うちの息子と関わるな!!いいか!?迷惑だ!!君も君でご両親にどんな迷惑がかかるか考えろ!義人とはもう会わせないからな!!大学も辞めさせる!!いいな!?》 そうとだけ言って、通話終了のボタンが押されたのだ。

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