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第88話「視界」

「お父さん」 「出てくるんじゃないぞ、いいな」 「、、、」 「いいな」 弱々しく、萎んだ様なその笑顔はあまりにも歳をとって見えた。 40代の頃の父と違い、話しも余計に通り辛く頑固になった姿に胸を締め付けられ、義人は冷淡にも、人間は20歳を過ぎれば老いて退化していくばかりなのだから、今話しが分からなければもう理解し合う事も自分の存在を諦めると言う事もできないのではないかと父を見て思ってしまった。 2階の自分の部屋に押し込まれ、出てくるなと言われてドアが閉まる。 バタン、と虚しい音が響いた。 「、、はあ、」 しかし、先日より落ち着いた義人がそこにいた。 呑気にも、やっと腹が減ったと思えた。 腹から力を抜くと、ぐう、ぎゅる、とか言って腸が動く低い音がする。 「参ったなあ」 藤崎の声が聞けた事は嬉しかったが、代わりに携帯電話を取られてしまった。 いや、もしかしたらもう壊れているかもしれないのだが。 (藤崎、大丈夫かな、、これからどうしよう。とにかくあいつに会わないと) ここ数日、朝から晩まで義昭が家にいる様子からして、多分有給を使っているのだろうと思った。 となると、本当に明日、義人をどこかの精神科病院に連れて行ったとしても明日の午後か明後日からは自分の病院に行かねばならなくなる筈だ。 義昭は病院勤務の食道外科医で外科部長の位置にいる。 手術の予定だってある筈だ。 医師の休みにそんなに寛容な病院に勤めているわけでも、ヒョイヒョイと休める地位にいるわけでもないのだ。 (お父さんがいなくなった隙に携帯電話探しに行って、連絡取れたら連絡取ろう。電話番号覚えておけばよかったな。公衆電話からかけられたのに、、いやでも、急にいなくなると警察沙汰にされそうだし、家から出るわけにはいかないか。来てもらう?でも、迷惑、) そこまで考えて、いや、と思った。 (今、あいつに迷惑かけるとかそんなこと思ってる場合か) 大学を辞めさせるとまで言われたのだ。 藤崎と会話ができた事で安堵しきっているが、現状はかなりのところまで追い詰められているのだ。 大学も辞めず、藤崎と一緒にいる事も諦めてもらうにはどうしたらいいのだろう。 「、、久遠」 心細くなりかけるたびに名前を呟いている。 家族が1階でどんな話しをしていようと、義人は必死に家族も自分達も納得できる自分と藤崎の関係への理解と言う名の諦め所を探していた。 せめて自分の存在や生き方を「もうどうしようもないもの」と分かってくれさえすればいい。 そうすれば、義昭がやたらとプレッシャーを感じ、自分を追い詰めてパニックになる事も、咲恵が悲しんで泣く事も無くなる筈なのだ。 本当の意味で、失望して欲しい。 そして諦めてもらう。 これが今、義人が出したこの状況の打開策だった。 コンコン 「ん、、?」 義昭にしてみれば優し過ぎる。 咲恵にしてみれば足音がしなさ過ぎる。 このノック音はきっと昭一郎だろうと、義人はベッドの端に座りながら顔をドアへ向けた。 「昭一郎?」 「うん、、入って良い?鍵してる?」 「してないよ。入りな」 義人は落ち着き払った自分の声が少し笑えた。 散々泣いて騒いで情けない姿を家族に晒したくせに、少し藤崎の声が聞けたからと言ってすぐにこれだ。 (俺、久遠にこんなに守られてたんだな) ぼんやりとそんな事を思った。 ガチャ、とドアの銀の取っ手が下がり、昭一郎が部屋に入ってくる。 疲れたような、悲しそうな、よく分からない複雑な表情をしていた。 「どしたの」 また、家族が壊れそうなのに何をしているのか、と怒られるかもしれない。 けれど義人自身は、藤崎との関係を壊されてたまるか、と思ってしまっていた。 「あのさ、、」 「ん?」 「あ、飯、夕飯。食べる?流石に腹減らない?」 「んん、すごい腹鳴ってる」 義人は自分の腹部を右手で摩り、あはは、と笑ってみせる。 「あっ、じゃあ、飯、持ってくる。鍵閉めないでね」 「ん」 緊張したような声だ。 それだけ言うと踵を返し、タタッと走って部屋を出て行く。 開けられたドアからは1階の物音は聞こえて来ず、昭一郎の遠ざかる足音と階段を降りる音だけが聞こえた。 (熱い) 部屋の窓を開けて、網戸にしておく。 少しの間密閉していただけで、部屋の中は蒸したように暑くなっていた。 しばらくして昭一郎が再び階段を上がってくる音がして開けられたドアの前に現れると、お盆に乗った小さな土鍋に入ったお粥と、小皿に乗った卵焼きと焼いたソーセージが届けられた。 「胃に優しいものにしとけって、お母さんが」 「あぁ、、ありがと」 母は大丈夫だろうか。 リビングから引き摺り出されたときに見た泣いている姿しか思い出せず、義人の胸の奥がトンと重たくなる。 ベッドから降りると、組み立て式の小さなテーブルを壁際から持ってきて組み立てて置き、その天板の上に昭一郎がお盆ごと夕飯を置いてくれた。 (卵入ってる。おいしそ) 出て行くのかと思ったが、昭一郎はドアを閉めて部屋の中央に戻ってきた。 そして、義人が座っている位置と対面に行き、床に座り込んでしまった。 体育座りだ。 「いただきます」 添えられていたレンゲを持ち上げ、手を合わせる。 お粥からはほわほわと湯気が立っていた。 「どーぞ」 「、、あったか。うま」 やっと美味しそうと思えたし、やっと美味しいと思えた。 こんなにも心境が変わるとは思っていなかった義人は、先程までの悲劇の主人公きどりの自分が少し恥ずかしく思えてならない。 「兄ちゃんさあ」 「ん?」 お粥は温めてくれたようで熱々になっている。 卵が混ざった淡い黄色のお粥は塩味しか付いていないのに、息を吹き掛けてよく冷ましてから食べると驚く程美味しい。 そう言えば、2人で飲み過ぎた次の日なんかはよく朝飯と昼飯がお粥だったな、と藤崎との日常を思い出してしまった。 それがやはり、寂しかった。 「、、、」 この部屋にも、この家にも、藤崎といた思い出はない。 堪らなく藤崎の匂いがしない場所と言うのが義人にとっては辛いのだ。 「藤崎さんて、どんな人?」 「えっ?」 卵焼きを口に入れた瞬間、昭一郎は義人に視線を向けずにどこか気まずそうにそう聞いた。 そう言えば、甘い卵焼きは高校の頃、母が毎日作ってくれた弁当によく入っていたものだった。

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