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第89話「兄弟」
「、、、」
「いや、あの、言いたくないよな。ごめん、」
「あ、いや、ひと言で言えなくて、」
「え?」
義人の困った様な少し照れた顔に、昭一郎は思わずギョッとしてしまった。
(そんな顔するんだ、、)
それは初めて見た兄の表情で、昭一郎にとって、おおよそ義人が恋人について語るときの顔ではなかったのだ。
「そんな、」
「?」
「そんなにさ、好き?なの?」
「、うん」
「ぁ、」
食べる手を止めて、義人は藤崎を思い出しながら、ふにゃ、と顔を崩して優しく笑った。
好き?
好きに決まっている。
どの場面を思い出しても全てが愛しいのだ。
彼と作る朝ご飯も、大学で過ごす退屈な講義中にこっそり手を繋ぐのも、友人達と回転寿司に行くのも、2人だけで過ごす休日も。
どんなときのどんな時間も、藤崎自身も、全てが輝いていて、義人にとっては日常のどんな些細な事も言葉すらも大切なものだ。
藤崎を思い出す義人の穏やかな表情を見つめながら、昭一郎は唖然として、そしてやはり分からなかった。
自分は兄に何を期待して、何を押し付けて、同性愛を怖がり、おかしいと思ってしまったのだろう、と。
「普段はこう、人前とかだとかなりムカつくこと言ってくるし気持ち悪いときもあるんだけど、基本優しい。あと料理上手い」
「ふーん、、」
興味がないフリをしたかったけれど聞いたのは自分で、「麻子さんてどんな人?」とそんな質問をしたときに、こんなにも嬉しそうに相手のことを話す姿は見られなかったからと昭一郎は狼狽えているのだ。
(変わったなあ)
そう言えば、不安定だったりキレやすくなったり、自分を傷付けてしまったりしていた頃の義人と比べて、雰囲気が穏やかになった。
まるで小さい頃の兄のようだ。
将来のことも、医者になるとかならないとかも気にせずに生きていた頃の自分達の雰囲気が戻って来たみたいに感じられて、昭一郎は懐かしさで胸の奥が痛む。
高校受験失敗のあの瞬間、憧れていた兄がぼろぼろになってしまったときが彼の中にはまだ鮮明に残っている分、今この状況が信じられないでいる。
ゴッ ゴッ
「、、、」
頭の中ではまだあの音がした。
過去、義人の部屋のドアの前に立ったとき聞こえて来た不思議な音。
『兄ちゃん、?』
深夜1時を過ぎていたと思う。
何かが怖くなって返事が返ってくる前にドアを開き、中に踏み出した瞬間、振り上げた兄の手は止まった。
『兄ちゃん、何してるの、、こ、怖いよ』
『、、ごめんね。大丈夫だよ』
『は?、何で、自分のこと叩いて何が大丈夫なの!?』
義人はあの時期、夜になると自分の頭を殴っていた。
それを知っているのは無論、自分と母だけだ。
父に話せばまた大事になって義人自身が責められるからと咲恵が昭一郎の口を閉し、義昭にその事が知られない様にその日から義人と一緒に寝る様になった。
ちょうど、過度なストレスにより彼が円形脱毛症になったのはその時期だった。
「、、、」
昭一郎は脱毛症は既に治って今はふさふさに生えている義人の茶色の髪を見つめた。
中学、高校のときよりも短く切る様になってから纏っていた暗い雰囲気も改善された気がする。
自分と違って母親似で男性アイドルに求められそうな可愛さも含んだ顔は先程までは酷く泣いて沈んでいたのに今は落ち着いた表情をしていた。
「あ、料理が上手いのはな、向こうの両親がイタリア料理のレストランやってて、見てたら色々覚えたんだって」
「ぇ、向こうの両親は兄ちゃんのこと知ってんの?」
「うん。もう何回も会ってる」
「エッ」
ドッと鼓動が速まった。
自分の両親にも知らせていなかったのだから、相手の両親にも同じ様に言っていないのだと思っていたからだ。
昭一郎としてはどうしても受け入れられる訳がないと言う考えが先行してしまうので、もう悪い方にしか頭が回らない。
「怒られたり、、嫌がられたり、何か言われた?」
「いや、ないなあ。好き勝手に生きろって感じの家庭だからかな。歓迎されてる。たまに俺だけ新メニューの味見しに来てー、とか言われるし」
「エッ!?」
彼の驚きっぷりに、義人はそれはそうだろうと納得して苦笑した。
当たり前だ。
昭一郎はゲイなんて自分以外に出会ったこともないだろうし、ましてやこのお堅い家で一緒に育った弟だ。
受け入れてくれる人達がいるなんて知らないだろうし、藤崎の両親、レオンと愛生がどんなに義人を可愛がっているのか想像もできないだろう。
まるで自分の息子のように連絡もくれるし遊びにも誘ってくれる。
義人は正直なところ、自分の育った家庭と違うこう言う家庭が築けたらそれもまた良かっただろうなと思うくらいに、藤崎家ごと愛しているのだ。
「藤崎が偏食凄くてさ。ほら、里音。お前の服のアドバイスくれたモデル、あいつの妹なんだけど、あいつも偏食凄いからまともに食べられる人がいなくてね。俺か他の友達が呼ばれんの」
「へえ、いいなあそれ。めっちゃ美味そうだし」
「美味しいよ。パスタもピザも。今度行くか、一緒に」
「えっ、いや、、だって、その、」
「あ、、そっか。そうだった」
藤崎の事を隠しもせず家族に話せるのが楽しくて、義人は昭一郎の気まずそうな表情を見てやっと我に返った。
考えてみれば、今、藤崎と別れさせられそうで、しかも、大学まで辞めさせられそうになっているのだ。
こんな呑気な事を言っている場合ではないし、昭一郎が「行きたい」と言う訳もない。
「、、、ごめんね」
「え、?」
義人はそう言うと、パク、と冷めて来たお粥をひと口食べる。
段々と水分が蒸発してきてねっとりした粥になっていた。
「分かってたんだよ、こうなるの。ここまでとは思ってなかったんだけど。お父さんが怒るのも、お母さんがきっと受け入れられないのも、分かってたんだよ」
カツ、カツ、と土鍋の内側にこびりついた米粒をレンゲで手前にかき集める。
冷めてしまってはいたものの、ソーセージはパリッとしていて美味かった。
兄弟2人が義人の部屋でこんなにもゆっくり話すのはやはり久々だ。
義人がずっと帰ってこなかったのもあるが、お互い大学に入ってからは自分の生活が楽しくてはしゃぎ回り、あまり両親を顧みてもいなかったからだろう。
(久々に帰って来た息子がゲイだった、なんて、ショック受けない訳なかったんだよな)
義人はお粥の最後のひと口を食べ切った。
「それでも、好きなんだよ。気持ち悪いかもしれないけど」
ティッシュの箱をベッドの上から取ってちり紙で口元を拭くと、「ごちそうさまでした」と空になった食器に再び手を合わせた。
ぐるぐるとうるさく鳴っていた腹も満たされて、ふう、と力が抜けて行き、気が入る咲恵や義昭ではなく弟の昭一郎が話し相手と言うのもあってか、義人はリラックスして脚を崩した。
「、、俺、彼女できるかもしんない」
何を思っているのかは知らないが、義人の食べ終わって空になった食器を見下ろしながら、唐突に昭一郎はそう言った。
「えっ、久々じゃん。良かったな」
「それってさ!!」
「わっ!?、うん?」
否定した訳でも非難した訳でもなく単純に「良かった」と思ったまでを口にしたのだが、どこに反応しているのか昭一郎は2人の間の小さなテーブルに身を乗り出してくる。
そうしながら空の食器が乗ったお盆をヒョイと床の上に移動して、グン、と義人に顔を近づけて来た。
「それって、兄ちゃんはキモいって思う?」
「え?」
眉間に皺を寄せた真剣な顔。
彼の思考はまったくよく分からなかったが、義人は思った事だけを答えた。
「全然、何で。嬉しいよ。あと、その子見てみたい、とは思う」
そう言うと、フ、と昭一郎の肩の力が抜けた様に見えた。
「、、ごめん俺、駅で兄ちゃんのこと見たとき、気持ち悪いなって。何でだよって、分かんなくなって、何か脅されてんのかなとか、美大行って頭おかしくなったのかなとか、思ったんだ」
「んん、分かってるよ、昭一郎。落ち着け。な?」
乗り出して来た身体に手を伸ばし、ポン、ポン、と優しく肩を叩いてやったが、弟の顔は力が入ったままだ。
そしてそのまま、昭一郎は自分でもよく分からなくなるくらいに喋りだしてしまった。
「でもさっき兄ちゃんめっちゃ泣いてて、そんで、藤崎さんと電話したら、凄い落ち着いて、兄ちゃんらしくなって、それ見たら凄いな、とも思った。気持ち悪いって思ったのは俺の勝手で、同性愛を否定する権利も何もないし、ただ少し、びっくりしてて、」
「昭一郎、分かってるって」
「でもほら、俺がお母さんに言ったのがきっかけじゃん。そもそも俺が、兄ちゃん頭おかしいとか思ったのが問題で、だから、俺がこんな大事にしちゃったんじゃん。お父さん、明日本当に兄ちゃんのこと病院連れてくって、、お、お母さんが今止めてるけど、でも、兄ちゃんがそもそも、そんなとこ行くのも、お父さんとお母さんが言い合いになってるのも、全部、」
「昭一郎」
「、、、」
「俺が黙ってたせいだから。お前は悪くないんだよ」
「っ、」
だったら誰が悪かったんだ。
義人も昭一郎も、お互いの顔を見てそう思っていた。
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