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第91話「勇気」
小さい頃、あんまりにも厳しかった義昭に、義人はあるとき勇気を持って「叩かないで」とお願いをした事があった。
普段から義昭の苛立ちやすい部分だけは受け入れられなかった咲恵としても、「こんなお願いをされてしまった」と後に弱音を吐くくらいには、泣きながら「叩かないで」と言った息子の姿に義昭が罪悪感を感じたのだと分かった。
2人だけの約束だったけれど、義昭は小さい義人に手を上げていた事を反省し、高校受験に失敗したあの日まで、その約束を守り続けた。
けれど、第1志望校に落ちたと聞いた瞬間、義昭は溜め込んでいた苛立ちや義人に合う塾探しに使った労力、親2人で懸命にした塾への送り迎えの時間や高い受講料を思い出して、全てを罵声と暴力に変えて義人に当ててしまった。
『お母さん、大丈夫だよ。俺、大丈夫だよ』
真っ赤に腫れた頬を痛がりもせず、説教の終わった部屋から出てきた義人が咲恵に言ったのは、そんな言葉だった。
(あの日から、お母さん、何にも変わってないね、義人)
老けるばかりだ。
仕事人間で亭主関白な義昭とただ淡々と暮らして、時折り昭一郎と話して、本当にたまに、義人が帰ってくる。
その繰り返しで、あの日の後悔や間違えから逃れられた事はない。
もう後悔しないように息子を守ろうと意気込んでもすぐに跳ね除けられて、頑固で話しが通らなくなってきた義昭と向き合おうとした事もない。
「、、、」
昭一郎がこんなにも、義人と向き合おうとしているのに。
咲恵は泣き出した息子の背中を撫でながら、もう一度、「うん」と言って言葉を詰まらせる昭一郎を促した。
「兄ちゃん、笑ってたんだよ」
「っ、?」
その言葉を聞いて、咲恵はハッとした。
「駅で見た兄ちゃん、めちゃくちゃ楽しそうだった。家じゃ、お父さんいるから、あんな顔しない」
ぼたぼたと流れて足元に落ちていく昭一郎の涙を視界の端で追いながら、向かい合った彼の澄んだ黒色の目を見つめた。
「兄ちゃん幸せそうだったんだ。だから余計にびっくりした。麻子さんといても、俺達といても、あんま笑わないしボーッとしてるのに、あのときめちゃくちゃ笑ってたから」
昭一郎の脳裏に浮かぶ光景の義人は、確かに藤崎とキスをして、嬉しそうに笑うのだ。
記憶を書き換えたりはしていない。
あれはあのとき本当に、嬉しそうに彼が笑っていたのだ。
憧れだった兄が高校受験に失敗して、全く笑わなくなって、医大に行かず美大に行くと言ってまた父親と衝突して、暗い表情が増えた。
そんな顔ばかりを覚えていたせいか、あのときの幸せそうな笑顔が強烈で、だからこそ昭一郎もすぐに彼はキスをした相手が「好きなんだ」と気が付いたのだ。
「、そっか」
「っ、ん」
そのくらい、純粋にあのときの義人と藤崎の間には愛が見えた。
そして、いつからか消えてしまった自信と幸せに満ち溢れた兄の姿があった。
「ほら、泣かない。ありがとう、教えてくれて。ね」
「だから、」
「うん」
「だから、俺、藤崎さんに会ってみたい。もし危ない人じゃないなら、兄ちゃんを応援したい」
「、、うん」
厳しく育て過ぎた事に間違いはない。
でも今、義人は好きな事をしようと懸命に大学に通い、好きな人といようと懸命に義昭に抵抗している。
「、、、」
咲恵は自分の疑問と、その瞬間向き合った。
彼女は自分の子供を泣かせたかった訳ではない。
きっと世間に受け入れられず不幸になるから、同性の恋人と別れて欲しいと思った。
義昭のように病気とまでは思っていない。
ただ、自分がこの世に産んだはずの、お腹の中にいた子供が、急に余りにも遠い世界の生き物になってしまったように感じて悲しくて、そうして寂しく、怖くなったのだ。
「お母さんも、会ってみたいな、藤崎くん」
「、、ほんと?」
「うん。義人と2人でいるときの様子も見てみたいし、話しも聞いてみたい」
ズッズッと鼻をすする昭一郎にティッシュを渡しながら、咲恵はニッコリと笑って答えた。
自分はもう古い人間で、最近流行っているSNSや動画配信サービスの事だって分からない。
世間で言うオネエ、とはまた違う雰囲気の義人やその恋人の藤崎の事を、まだまだ分かっていないに違いないのだ。
昭一郎が言う様に、もし藤崎と言う人間が、今、義人の両親である自分達が彼を泣かせている様な事をしていないのなら。
大切に大切に、宝物の様に恋人にしてくれているのなら。
それは間違っていないのかもしれないし、2人が付き合うのは普通の事なのかもしれない。
(ネットで調べて知った気になるのはやめなきゃ)
まずは自分の目で見ること。
同じように同性恋愛をしている人達を調べて、もし話しが聞けるなら聞きに行くこと。
本を買ったり、講演会に行ってみたり、もし、自分の息子と分かり合える道があるならそれを見てみたい。
息子が何を大切にしているのか、彼のどこがそんなにも素敵だったのかを知りたい。
昭一郎に藤崎に会ってみたいと言われて、咲恵はやっと心底落ち着いて、義人についてもっと深く考えてみようと思えた。
もしかしたら息子がもう1人増えるだけの話しかもしれないと、やっと踏ん切りがついたのだ。
『貴方が求める息子にはなれないんだよ』
義昭と向き合ったときの義人の言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。
(ごめんね)
「早く子供を」と結婚した当初から義父母に言われて随分肩身の狭い想いをした事も同時に思い出された。
結婚してから7年経って、もう諦めようか、と義昭が言ってくれた年に自分達の元に来てくれた遅くにできた子供だったから、咲恵は何にも不自由なく暮らせるように器用な子に育てたいと思っていたし、義昭は自分の父が自分に求めたように何としてでも医者にしたかった。
義人はたくさん望まれて生まれてきた。
そして、咲恵からすれば、少し背負わせ過ぎた息子でもあった。
「、、昭一郎も義人ももう大人で、20歳も過ぎたんだから、いい加減お母さん達が子離れしなくちゃね」
「え、?」
「結婚しない人だって多い時代なのにね。結婚して綺麗なお嫁さんもらって、可愛い孫見せて欲しいって思うのは親の勝手だよね。でもどう生きるかは、子供の勝手だよね」
「、、、」
諦めたような、それでもスッキリした母の顔が見えた。
それで昭一郎にもやっと、咲恵が義人と否定だけではなく向き合う決心をしたのだと分かった。
「お母さんも、義人の生き方は間違ってないと思う」
最後に昭一郎が持っていたティッシュの箱から1枚ちり紙を抜くと、ポンポン、と咲恵はそれを目尻に当てた。
「お母さんとお父さんが思ってるよりも、2人はもう大人で、色々考えてるんだもんね」
いくら思い出があっても、大切に育てていても、巣立ちと言う時期は来る。
そしてその巣立ちの瞬間、親が子の足枷になってはいけないのだ。
羽ばたく邪魔をして地に落としてしまえば、子供は簡単に死んでしまうのだから。
「手を離す準備をしなくっちゃ。お父さんにも、分かってもらおうね」
「うん」
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