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第93話「車内」
浴室から出て服を着込んで、重たい足取りを引きずりながら脱衣所を後にする。
シャワーを浴びれば少しは気分が変わるかと思ったがそうとはならなかった。
よく眠れもせずに、義人は朝を迎えていた。
「、、、」
今朝早く、5時ごろから両親が喧嘩をしていた声で目が覚めた。
1階から響いてきた怒声にまた消しようのない黒い塊がトプン、トプン、と胸に溜まっていくのが分かる。
(また俺のことで喧嘩してるのかな)
確実にそうだろうと思う。
他に特に思いつく理由はない。
暗い部屋の中で寝返りを打って両の耳を塞いだが、父親の声はそれでも聞こえてきた。
(こんな朝から、、通報されなきゃいいけど、)
ぼんやりとそう考えていた。
もう一度浅く眠って7時半に目が覚めると、8時前くらいに昭一郎が義人の部屋のドアをノックした。
結局、咲恵が義昭に病院はもう少し考えよう、話し合おうと言ったのだが、全て跳ね返されて精神科に行く事になったらしい。
精神科、つまり、心療内科。
鰐渕メンタルクリニック、と言う、義昭の知り合いが少し遠くの駅の前に開いた小さめの病院らしい。
「はあ、」
ため息をひとつ零してから、押し黙ったまま廊下を歩く。
疲れた体も、傷ついた心もどうしようもない。
これでもし何かの病気と診断されたら立ち直れるのだろうか、と風呂場から出て廊下を歩き、階段の1段目に足を掛けたときだった。
「義人」
その低い声に、ビク、と肩が跳ねた。
リビングの開いたドアから、そこに立っている人影に視線を預ける。
「お父さん」
厳しい表情をしていた。
朝5時からの喧嘩と、きっと昨日あまり寝ていないせいなのだろう目の下の隈と疲れで、酷い顔色をしてる。
義昭は義人を見たまま口を開いた。
「支度したらすぐに出るぞ」
「、、はい」
気が済むなら、と義人は思った。
これで、何と診断が出ようと一旦父の気が済んで警戒が軽くなるなら携帯電話を取り返せるかもしれない。
その隙が生まれる可能性はある。
それに、昭一郎が取り返すとも言ってくれていた。
希望が生まれるなら、耐え忍ぶしかない。
義人はグッと下唇を噛んだ。
(落としどころを探さないと、)
お互いが納得する形、を、彼は探していた。
車内は無言だった。
後部座席に座らされている義人と昭一郎。
それから、会話もせずに横に並んでいる父と運転している母。
バックミラー越しにたまに自分を見ている母には気がついていたが、義人は黙り込んで俯いていた。
「ごめんね、兄ちゃん」
「お前は悪くないよ」
眉をハの字にしてしまっている昭一郎に笑い掛けると、義人は再び俯く。
携帯電話を取り戻してもらおうとしていたのだが、今朝5時からの喧嘩の末、興奮した義昭が運転をしては絶対に事故になるからと咲恵が運転をする事になり、更に、義人が暴れるかもしれないからと義昭は昭一郎に病院までついて来いと言ったのだ。
結局、家族4人総出で義人が行く病院まで赴く事になった。
「、、ハア」
誰にもバレないように小さくため息をついた。
小さい頃、本当にたまにこうして家族全員で車に乗って遠出をしていた事を思い出しながら、今と全く違う状況だったな、と目を細めて窓の外を眺める。
旅行は中々なかったが、日帰りで遊園地に行ったり登山に行ったりはあった。
その帰りに高速道路で見た知らない街の夜景は美しく、出掛けた先でいくら父に怒られても、何だか帰りにそれを見ると皆んなで遊びに行ったのだと思えて嬉しくなった。
両親は後部座席の義人が起きている事なんて知らなくて、義人と昭一郎が大きくなったと話をしていた。
それを聞いているのが、何だか好きだった。
昭一郎は疲れ切って良く寝ていた気がする。
22時を回るとどんなに体力が残っていてもコトンと寝てしまう弟だった。
もう何代も前の車での話で、思い出すと妙に胸が締め付けられる。
『そうそう。義人が教えたから、昭一郎は逆上がりができるようになったの』
『ああ、義人は教えるのがうまいからなあ』
そんな会話が聞こえて来て、何だか誇らしく思えた。
考えてみればあの頃はまだ小学生で、義昭もあまり成績等を気にしてはいなかった。
習字がうまく書けて、わざわざ病院まで見せに行ったときもあった。
職場に来るなと怒られたけれど、でもその後はじっくりと持ってきた習字を見てから、「うまい!」と褒めてくれた。
「、、、」
そんな思い出もある。
義人はチラ、と助手席にいる義昭の後ろ姿を見つめた。
(嫌いにはなれない。この人は俺の父親なんだ)
だからこそ、落としどころを探し合って、歪だったとしても納得のいく形に収めて、この騒動を終わらせたかった。
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