94 / 136
第94話「診察」
「義人くんは、自分の身体も男性で、その上で男性が恋愛対象、と言う事だよね?」
「はい、あの、多分?」
「うん。それで、何か悩みはある?困ってることとか」
鰐渕メンタルクリニックは本日は定休日だったが、義昭はこの病院の院長である鰐渕優作とは友人であって、どうにも無理を言って義人の診断をお願いしたようだった。
それでも彼は怒りもせず穏やかで、義人は見た事のある内科や歯医者の個人病院とはまた違った雰囲気と内装をしている診察室で、割とゆったりとしたソファに腰掛けていた。
咲恵と昭一郎が止めてくれたおかげで、義昭は待合室にいる。
義人は1人で緊張気味に問診票にもろもろを記入し終わり、それを鰐渕に見てもらいながら話しをしていた。
「あ、ご家族とのこと以外で。例えば、恋人は?」
「えと、」
ほわーん、と笑う人だなと思った。
休みの日にわざわざ知り合いの息子1人を見る為だけに病院を開けているところも優しすぎると言うか、丁寧な対応過ぎる気がする。
プロ意識が故なのかと観察しているのだが、緩い雰囲気に妙に気が抜けてそんな風にも見えなかった。
「あ。答えたくなかったら全然いいですからね。言いたくありません、で」
「はい、いえ、大丈夫です。恋人はいます」
「男性?」
「はい」
「彼とのことで困ってること、相談したいことはある?何かつらいとか」
「、、特には」
義人のポカンとした顔を見て、初老の男は丸いレンズの眼鏡の奥でニッコリと目元を歪ませて、ふふ、と笑った。
「素晴らしいじゃない」
「そ、ですか、ね」
「良いと思うけどな。君はどう?彼とのことでは特に問題もなくて、辛いこともなくて、素晴らしいとは思わない?」
「、、父が、」
「うん」
「これは、その、言っていいのか、今回の診断に関係あるんでしょうか、」
不器用に言葉を選ぼうと言う義人を見つめて、鰐渕はゆるゆると口元を緩めてにまりとした。
初老、とは言ったものの、ロマンスグレーの豊かな髪のせいか、鰐渕はほぼお爺さんに見える。
テーブルを挟んだ向いのソファの背もたれにトン、と背中をつけると、彼はふう、と穏やかに息をついた。
診察室内の壁には絵が掛かっているだけで時計がない。
時間が確認出来るのは鰐渕の左手首についている銀色の腕時計だけのようだ。
「同性愛は精神疾患ではないし、性自認が違う人達も疾患ではないと個人的に思ってるのだけど、面倒な呼び名がついていて、何だかやだよねえ」
「、、、」
「ときどき、自分がどれだか分かりませんって子がくるけど、僕も随分分からなかったなあ」
「え、?」
病院についてから既に30分が経過していた。
義人が1人で診察室に入る事を義昭は鰐渕の目の前で目の色を変えて激しく拒否し、一緒に行くと言ったのだが、最後は彼の「必要ありませんよ」のひと言で立ち尽くしてしまった。
古くからの知り合いだと言っていたが、どうにも鰐渕の方が歳上で、歳を取って見える。
白髪のせいか。
いや、この熟練者と言う風格の余裕のせいだろうか。
義人は自分に下される診断によっては入院もありうるのだろうかと思っていたが、それ程の事ではないようで、緊張感のない軽い言葉のキャッチボールから始まった診察はかれこれ20分続いている。
「色んな自分を親に否定されてね、よく分からなくなったよ。色んな意味で。でも君はしっかりしてる。男性だけど男性が好き。格好良いけどなあ、今の君」
「、、、」
「お父さん。佐藤先生にここに連れて来られたね。電話を受けたとき本当は何度もお断りしたんだよ。同性愛は病気ではありませんよ、って。でもあまりの剣幕だったから、どちらかと言えば君が追い詰められて鬱病になってないか心配だったんだ。それは大丈夫そう?」
「、、はい」
鬱病。
それがどう言うものか分からないが、きっとそこまではいっていないだろうと義人は頷いた。
その様子を鰐渕は静かを観察している。
彼の中では義人とは反対の答えが出ているのだ。
「うん。ご実家に帰る前まではのびのびしてたみたいだね。細かく書いてくれたから、ご実家に戻って佐藤先生と話しをしてから身体が怠かったり妙に暗いことを考えたりしてるのかな?」
「はい」
「んー、一旦これをなくした方がいいと思うけれど、どうかな?お家から出られそう?」
「、、難しい、ですね」
その答えに「うんうん」と言いながら頷いて、鰐渕は背もたれから背中を剥がすと前のめりになり、義人の書いた問診票を表を伏せてテーブルに置いた。
そのまま膝の上に肘をつくと、立てた腕の先の手を組んで顎を乗せる。
優雅な動作だった。
「では、私から一度、佐藤先生にお話ししましょう」
「っ、え」
確実に大きな味方ができた気がした。
ゲイが精神病でない事や義人自身をまったく否定しない赤の他人、それも免許を持った医師が義昭を説得してくれるのだ。
彼にとってはやっと藤崎の元に戻れる、と言う安心が生まれた。
(早く帰りたい)
帰ったらまず謝らないと。
その前に携帯電話を取り返して連絡を入れないと。
色々な事が頭をよぎっていくが、何よりも急かしてくるのは、彼に触れたいと言う想いだった。
「君のことを分かってくれる人、味方になってくれる人はいる?」
「弟は、多分。母も病気ではないから、って父を説得してはくれたみたいで」
「そうね。奥様にも言っておこうかな。君は一旦、佐藤先生から離れた方がいいなあ。距離を置いてから少しずつ話していった方がお互い距離感がチグハグになってしまわないと思うね」
「はい、やってみます」
「無理しなくていいけれどね」
またニコ、と微笑まれた。
「理解し合うのはね、難しいんだ。認め合って、あーそれもまあ有りだよね!、くらいになれば、万々歳かな」
「、、はい」
それだけで診察は終わったが、義人には鰐渕の最後の言葉が少し響いた。
やはり、分かり合うというのは無理なのだと念を押された気がしたのだ。
彼の中で出来上がっていたちょうどいい落とし所を探すべき、と言う想いが肯定されてしまった。
「弟さんにはこうしたいって話してみてごらん。歳も近いし、きっと力になってくれるから」
「はい」
やっとシャワーを浴びて着替え、新しく着た下着、Tシャツ、ズボン。
実家にまだ着れる服を置いておいて良かったと心底思ったそれらを着こなして、義人は今日ここに来た。
診察室の横開きのドアをガララ、と音を立てて開けると、後ろからのそりと鰐渕がついてきた。
「佐藤先生、終わりましたよ」
「おお、鰐渕くん!義人!」
診察中にここに来た当初の苛立ち等は落ち着いたのか、義昭はニコニコしながら義人と鰐渕に歩み寄って来る。
その後ろから、心配そうな咲恵と昭一郎が続いた。
「佐藤先生、奥様。少しお話ししたいのですが、よろしいですか?」
鰐渕はにこやかな表情のまま義人の両親に声をかける。
「ああ、私1人で伺おう」
「いえ。奥様も」
「あ、はい」
「義人くん。弟さんに、先程話していたこと、色々話してみて。いいね」
「はい。ありがとうございました」
「はい。ではお2人、中へ」
義昭は嬉々として診察室へ入っていった。
これで義人が何らかの精神病だと分かるだろうと思って、言い方は悪いがワクワクしているのだ。
男が好きだろうと何だろうと、病気なら治せる。
彼の中の淡い期待が今大きく膨らんでしまっているのだ。
その後ろ姿を何処か切なくなりながら眺めていると、咲恵が義人の隣に立った。
母は少し、いや、随分とスッキリしたような顔をしていた。
(何かあったのかな、、)
朝から義昭を止める為に喧嘩をしていた時点でどう言う風の吹き回しかと思ってはいたが、自分を見つめる目がいつも以上に母親らしく見えて、義人は身構える事なく、にこ、と彼女に笑って見せた。
「大丈夫だよ」
「、、ん。ちょっと待っててね。あ、これ、お財布。そこの自販機使えたから、何か買って飲んでて。そっちの通路なら飲んでいいみたいだから。じゃあね」
そう言えば携帯電話もないからと財布や定期を入れた鞄も何もかも部屋に置いてきていた。
咲恵に渡された彼女の気に入っている薄いピンク色の長剤布を受け取ると、「ありがとう」と言って自動販売機まで歩いていった。
やたらと喉が渇いていた。
ともだちにシェアしよう!