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第95話「正装」

帰りの車は昭一郎が運転し、義昭が助手席、義人と咲恵が後部座席に座っていた。 咲恵の運転でも良かったのだが、診察室から出てきた彼女は人前で義昭と言い合ってしまった恥ずかしさやら怖さやら、力が入り過ぎていた身体から急に脱力してしまったせいもあり、手足がずっと震えていたので、危険だと思い昭一郎が代わったのだ。 車内はまた無言で、行きよりも重く苦しい空気で満ちていた。 誤魔化すように昭一郎は冷房の風量を増した。 淀んだ空気が肺に溜まると、気持ちが悪くなるのだ。 「、、、」 鰐渕から聞かされた義人の診断結果に納得がいかず、義昭が診察室内で怒鳴り散らしてから1時間は経っていた。 帰りの車の中、午前11時半過ぎだ。 結局、義人はどう言う病気と言う事もなかった。 同性愛は病気や疾患ではない為、治療する必要はない。 同性愛者である事からの心労や苦悩による鬱病の傾向があり、主な原因が義昭の咎めによるものだと言う事を鰐渕はハッキリと口にした。 彼が普段から話しを聞いてケアしている人間達の中にも勿論同性愛者や性同一性障害、性自認が曖昧な人は多くいるが、そのどれもが病気ではない。 その個性故の生きづらさが引き起こした不安や、他者の視線や発言、行動から作られてしまった心の傷によって病気になるのだ。 今、義昭が義人にしている事、させようとしている事に原因があると言われ、彼は「そんな訳はない」「息子を正しい道に戻そうとしている」と主張したのだが、このままでは認めて貰えない義人も、認める事ができない義昭も壊れてしまうと言って、鰐渕は2人に距離を置かせるように咲恵に進言した。 自分と同じ免許を持った医師からも考えや行動を諌められ、義昭は今、完全に善悪が分からなくなってしまっている。 正しい道にと思って義人に厳しくしたのに、頬をぶったのに、何故? 目眩がするほど多くの言葉、考え方、捉え方が頭の中を移動していて、どれを信じて、どの信念を持って義人に正しい道を教えるべきなのかが分からなくなってしまったのだ。 「お父さん、お茶飲んで」 「、、、」 咲恵は全く喋らなくなってしまった義昭を気遣い、自動販売機で義人が義昭用に買っておいたお茶のペットボトルを、後部座席から助手席と運転席のシートの間から手を出して彼に渡そうとした。 「お父さん」 「分かってる!!」 気遣いに返ってきたのは、勿論、怒声だった。 「分かってるから静かにしてくれ、今考えてるんだ!!」 「、、分かった」 母は穏やかな声のまま、ペットボトルを引っ込めた。 父1人が、焦っていた。 門を開けて右側にある車庫に車を停めると、昭一郎はさっさと降りて庭の先にある開けっ放しにした門を閉めに行った。 義昭がドアを開けずに助手席に乗ったまま動かないのを見つめて、咲恵はフン、と鼻から息をつくと義人に「中に入ってて」と言って家の鍵を手渡し、目の前の夫へ口を開いた。 「お父さ、」 「分かってる!!」 「、、うん」 もう誰の声も届かない状態だ。 義人はその怒鳴り声が車内に響くのが嫌で、言われるがまま、逃げるように車から出た。 バタン、と力を入れてドアを閉じて、コンクリートで固められた車庫の床を踏み、陽の当たる、砂利の敷かれた庭に出る。 皮肉にも、いい天気だった。 夏らしい大きな入道雲が青空の向こうにある。 庭に生い茂った木々の間から見えるそれを眺めて、フ、と肩の力を抜いた。 (疲れたなあ) 陽に当たるのが久々だった。 実家に帰ってきてから、ロクに外に出してももらえなかったからだ。 元から色の白い彼がその真っ青な空の下で陽を受けて立っていると、何だか消えてしまいそうに見える。 濃い茶色の髪が風に攫われ、ふわふわと毛先を遊ばれる。 着ている白い無地のTシャツの裾から中に風が入って、細い身体のラインにそぐわない膨らみが出来た。 「義人」 「、、、え?」 その消え入りそうな彼を見ていた男は、幻か幽霊でも見たかのような呆然とした声を出して彼の名前を呼んだ。 湿気で肺の中まで熱い。 直射日光が流石に痛いなと思った瞬間に聞こえた自分の名前を呼ぶ声に、義人は一瞬で大きな黒い瞳にたっぷりと涙を溜めた。 「に、兄ちゃんこの人、兄ちゃんに会いたいって、、」 昭一郎は庭の先の門を中途半端に閉めた状態で放置して、男の後ろに立って唖然としていた。 「、、なに、その、髪」 似合わない。 海苔でも塗ったかのように真っ黒な髪は、心底彼には似合っていなかった。 「何でいるの、藤崎ッ、」 義人を見つめるその視線は相変わらずで、「好きだよ」と言われているように錯覚する程、滲み出る愛情があった。 「遅いから、迎えに来たよ」 「ッ、!」 ふわ、と笑う顔が見えたその瞬間、目にも留まらぬ速さで義人は走り出していた。 自分の家の庭と藤崎、と言うあまりにもアンバランスで馴染まない組み合わせに笑いが漏れる。 義人はそのまま勢い良く、広げられた藤崎の腕に収まった。 見慣れない黒いスーツ姿に黒い髪、手に持ったよく分からない手土産でも入っているかのような白い紙袋。 品の良い柄の紺色のネクタイ。 抱きしめ返して来るいつも通りの力加減に、溜めて我慢しようとしていた涙が零れ落ちていった。 「何でいんだよ、馬鹿ッ、!!」 「だって、遅いんだもん」 耳元で聞こえる低く落ち着いた声に、安堵や不安が一気に胸に溜まって、身体が壊れそうになる。 夢じゃないんだと確認するように彼の身体を込められる精一杯の力で抱き締めると、向こうもそうしたかったと言うように腕に力を込めた。 「怖かったよ、幽霊みたいに空見てるから。やめてよ本当に」 肩に顔を埋めると、もっと、と言うように頭に手が伸びてきて、日光を浴びて熱くなった髪に藤崎の指が触れて撫でてくれる。 (夢じゃない、夢じゃないッ、!!) その服装や髪の色で、藤崎が何を考え、何を思ってここまで来てくれたのかが義人にはハッキリと分かった。 彼は彼なりに色々察して、準備を整えて、義人を連れて帰る為に迎えに来てくれたのだと。 「久遠、」 「うん、ごめんね。1人にして」 「久遠、久遠ッ、、」 ああ、やっとだ、と義人は思った。 そしてやはり、この男を諦められないと思った。

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