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第99話「対面」
ゼミ旅行で数日間離れたときから、もうダメだな、と彼は思っていた。
どんな場所で何をしていても、義人がいたら、義人と来れたら、とずっと考えていたからだ。
半身奪われたかのような寂しさと、隣の空虚が埋まらないもどかしさ。
自分が楽しい、と彼がいない、知らないところでそう思うのすらも、悲しいと思った。
「義人、ッ」
手土産の中のものが揺らしていいものなのかよく分からない。
モナカとかの詰め合わせ、と滝野が言っていたから、多分大丈夫だろう。
店を出てアスファルトの道路を走りながら、藤崎は道の角を曲がって見えた義人の家の車庫に車が収まっているのを見つけた。
もつれそうになりながら、足が速くなっていく。
「義人」
1人きりになる部屋に戻りたくない。
夜中に手繰り寄せる体温がないと、伸ばした腕が虚しくシーツに落ちる感触しかしなくて悲しくなる。
そこにいた「誰か」がいないと、藤崎久遠は無力でつまらない、ワガママで傲慢な人間に戻ってしまうのだ。
高校生の頃、何かの為に走る事も、誰かの為に必死になる事も格好悪く感じた時期があったのに、今は馬鹿みたいにダラダラと汗をかきながら真夏の昼の中を疾走している彼がいる。
何でもない日常があればよくて、呪われた運命に抗うファンタジー要素とか、可愛い10人の女の子からお嫁さんを決めるハーレムとか、そんなものはいらない。
ただ頭の中に浮かぶ愛しい男が、静けさと一緒にいるような彼が、楽しそうに笑って、恥ずかしそうに怒って、泣きそうになりながら「幸せ」と言ってくれるあの日常に戻りたい。
ただそれだけだった。
「ハアッ、ハアッ、ッ!、あの、すみません!!」
水色の、おそらく4人〜5人乗りの乗用車が車庫に停められて、庭先にある開け放たれたままの黒い格子状の門を運転席から降りて来た若い男が閉めようとしていた。
見覚えがある。
義人よりも高い背と、短く切られた黒髪、彼と似ていない男っぽい顔立ち。
写真で何度か見た事のある、義人の弟がそこにいた。
「え、?」
突然話しかけられて困惑しない訳がない。
それも、スーツ姿で染めたてと分かるくらいわざとらしい黒髪で、全速力で走って来た男相手には不審に思うだろう。
「はあっ、、すみません、あの、藤崎久遠と申します。佐藤義人くんは、ご在宅でしょうか」
「え、あっ、、え、」
藤崎は荒い息を落ち着かせ、乱れた身なりをパタパタと整えると、背筋を伸ばして彼に近付き、ニコ、と笑いかける。
まだ肺が落ち着かず、忙しなく膨らんでは萎んでを繰り返していた。
「義人くんとお付き合いさせていただいている者です。弟さん、昭一郎くんですよね?」
「ぁ、はいっ、あ、な、中?どうぞ、?」
「ありがとうございます」
中途半端に開いたままの門の中へ、藤崎はヒョイと入り込む。
目の前には、何とも広い庭が広がっていた。
「すみません突然。義人くんにお会いしたいのですが、」
「あ、兄は、あっちに、あ、出て来た」
バタンッ、と車のドアが閉まる音がして、車庫の中から、屋根のない庭の砂利の上まで歩いて来る人影があった。
「、、、」
真っ白な肌に白いTシャツと、紺色のチノパン、一緒に買いに行った白いスニーカーを履いた姿で強い陽射しに当たりながら、その人影は空を見上げて立ち止まった。
「っ、」
死んでしまいそうだ。
(義人、)
死んでしまいそうに見えた。
藤崎は気がつくと足を進めて、義人に近づいていた。
幽霊みたいに生気のない雰囲気を纏い、力のこもっていない虚な目で空を見ている彼は今にも消えてしまいそうで恐ろしい。
その疲れ切った無表情も、少しコケたように見える顔も、何もかもが不安になる程知らない男なのに、あれは義人本人だ。
(嫌だ)
呆然とした。
2日会わなかっただけでこんなにぼろぼろにされるなんて、そこまでは考えていなくて。
「義人」
どこかに行こうとしている。
行きそうになっている彼を、自分の元に呼び戻さないといけない。
彼の名前を呼んだ声は驚く程、何かに怯えたような呆然とした声だった。
「、、、え?」
眩い陽射しは肌を刺すように痛いだろう。
あの白い肌は日焼け止めを塗らないと真っ赤になってしまうのに、とどこか冷静に義人を見ている藤崎もいる。
名前を呼ばれた義人は藤崎の方へゆっくりと視線を向けながら、その黒く大きな目にたっぷりと涙を溜めていた。
「に、兄ちゃんこの人、兄ちゃんに会いたいって、、」
昭一郎は庭の先の門を中途半端に閉めた状態で放置して、藤崎の後ろから義人にそう言った。
けれどそんな声は届いてはいないのだ。
義人の目にはもう、見慣れない黒髪になってしまった藤崎しか映っていない。
「、、なに、その、髪」
やっぱりそこか、と苦笑いしたくなる反応だった。
「何でいるの、藤崎ッ、」
ああ良かった、義人だ。
「会いたかった」なんて言ってくれない不器用さが生きていて、藤崎は彼のままなんだと安堵した。
「遅いから、迎えに来たよ」
「ッ、!」
だから、もう大丈夫だよ。
そう思いながら笑って手を広げると、義人はすぐに藤崎の元まで走り寄り、勢いよく腕に飛び込んできてくれた。
(違う匂いがする)
離れていたんだ、と思わせるような自分と違うシャンプーの香りがフワッと広がって香る。
見た事のない無地の白いTシャツも、一緒に買った覚えの無いチノパンも、全部脱がせてしまいたいと思った。
「何でいんだよ、馬鹿ッ、!!」
「だって、遅いんだもん」
義人の首筋に鼻を埋めて匂いを嗅ぐ。
肌はいつも通りの義人の匂いで、心底落ち着いた。
目の前にいる。
腕の中にいる。
いつもと違って必死に腕に力を込めて抱きしめて来る彼に応えるように力を強め、藤崎は腕の中の体温を確認し続けた。
「怖かったよ、幽霊みたいに空見てるから。やめてよ本当に」
肩に顔を埋めて来るのが分かって、もっと、と言うように義人の少し熱くなった茶色の髪に手を回して撫でた。
あの一瞬の、死んでしまいそうに見えた彼がちゃんと目の前にいるのだと思うとやっと身体の力が抜けて来る。
良かった、生きてる、なんて演技でもない安堵だったが、本当に死んでしまっているよりも何億倍もマシな気分だった。
「久遠、」
縋るように背中に回った手がスーツを掴んでいる。
「うん、ごめんね。1人にして」
「久遠、久遠ッ、、」
もう離さない。
愛しげに名前が呼ばれるのは昨日ぶりなのに、もうだいぶ呼ばれていなかったような気がした。
「義人、かえ、」
「離れろッ!!」
「、、、」
帰ろう。
そう言おうとした瞬間、藤崎の声を掻き消して、義昭の声が大きく響いた。
「ッ、あ」
途端に、ビクッ、と義人の身体が震える。
藤崎は、ようやく彼の父親の顔を知った。
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