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第101話「選択」
「医者」が関係ないときの父は、怒りやすくはあったものの、いつも全力で優しかった。
『何で結婚したの?』
『ちょっとだけ、クマに似てない?』
『ふはっ、何それ!』
小さい頃、何故あんなに厳しくて怒ると怖い父と結婚したのかと母に聞くと、ボランティアだと良く言っていた。
けれど少し照れながら、そう答えてくれたときがあったのも覚えている。
「お父さん、、」
父がこんなに泣く姿を見たのは、父の父、祖父が亡くなったとき以来だ。
『親父、、ッ』
通夜の前。
亡くなった祖父が父方の実家の神棚がある畳の間に寝かせられていたとき、父が1人でそこに行き、ずっと泣いていたのを知っている。
義人にとっては怖くてうるさい、母をいじめる大嫌いな祖父だったけれど、父にとっての祖父は、義人にとっての父と同じで、どうしても嫌いになれない存在だったのだとそのとき彼は気が付いた。
「お父さん」
「頼む、家族なんだ、、大事な息子なんだ、頼む、頼む、」
「ッ、、、」
連れて帰る。
絶対に義人を連れて帰る。
藤崎はずっとそう思って、ずっとこの瞬間を待っていたのに分からなくなってしまった。
そしてまた、隣にいる義人ももう、何が何だか分からなくなってしまった。
こんなにも人を悲しめる自分達の恋とは、何なんだ?
義人の手が力を入れなくても、義昭の手はやがて掴んでいた藤崎のシャツやネクタイを離して、ゆっくりと義人に向かい、その細い身体を抱きしめた。
「ごめん、ごめんな、ごめんなあ、義人。厳しくして、叩いて、ごめんなあ、怒ってばっかりで、ごめんなあ」
「お、と、、さん、待って、お父さん、」
やめろ。
悪者でいてくれ。
また小刻みにカタカタと、彼に抱き締められた義人の手が震えた。
どうしてそう弱るんだ、と、罪悪感が浮かんで、悲しくて仕方ない。
父は老けたし、前よりも話しを聞いてくれなくなった。
こんなに弱って老いているのに、今ここで藤崎と一緒にマンションに帰って、もしも今日中に死んでしまったらどうしよう。
二度と会えなかったらどうしよう。
そんな不安が過ぎる程、義昭は力なく義人に寄りかかって泣くのだ。
「く、お、ん、」
青ざめた顔が藤崎を見上げる。
「義人、ダメだよ。ダメだ。お願い、」
藤崎を見つめながら、その震える手で義人は義昭を抱きしめ返してしまった。
「ちょっと、待って、、お父さん、こんなになるって、思ってなくて」
一緒にいてあげたい。
そう言ってくる視線を向けられて、藤崎は眉間に皺を寄せ、悲しそうに声を出した。
「義人、ダメだよ。お願いだから、」
「ど、したらいいの、」
「ッ、」
家族か、恋人か。
そんな選択を藤崎は彼に迫る事なんてできなかった。
彼にとってはどんなに自分を傷付けられても、佐藤義昭は愛すべき父親なのだ。
「ごめん、ごめんなあ、ごめん、ぁあ、ぁああ、、うあぁあああッ」
「お父さん、!」
ごめん、ごめん、と言いながら、義昭は大声で泣き出してしまった。
『家族なんだ』
藤崎の脳裏にもその言葉が浮かんで、義昭が自分の家族を必死に守ろうとしているだけなのだと言う事が理解できてしまって手が出せない。
だったら誰が悪いんだ。
父親の勤めを必死に果たそうともがいている義昭と、恋人を傷付けられたくなくて迎えに来た藤崎と、家族も恋人も大切にしたい義人と。
ここでは一体誰が悪くて、どうして誰もが不幸な表情をしているのだろうか。
「久遠ッ!」
「、、滝野」
そこに、門の外から様子を伺っていた滝野と光緒が庭に入って来てくれた。
「久遠、一旦引こう。義人のお父さんに落ち着いてもらおう。な?死んじまいそうで怖いよ」
確かに、正気ではなく完全にパニックを起こしている大の大人を目の前にしてこれ以上何もできはしない。
責め立てる事も落ち着かせる事も藤崎にはできない。
座り込んで泣き叫ぶ義昭を、そばにきた昭一郎が「立とうよ」と促している。
咲恵は車庫の前に立って息を落ち着かせているようだ。
騒ぎを聞きつけた近所の知った顔や知らない顔の連中が、庭先の門の前に集まり出してしまっていた。
皆んながジロジロ、ヒソヒソとこちらを見ている。
「お父さん、立って。家入ろ、ほら」
「お父さん」
抱きしめられたままの義人はどうしたらいいのかが分からないまま、けれど再び藤崎を見上げる事もできなかった。
(見捨てられない、)
こんなに追い詰められた父を見た事がない。
こんなに情けなく、子供のように泣きじゃくる弱った父を放っておけない。
本当に、このまま興奮した状態で血圧が上がり切って死んでしまうのではないかと思えて怖かった。
「昭一郎、お父さん支えて、」
「兄ちゃんは帰りなって、!!」
「いいから」
きっとこの後、近所で騒ぎになってしまった事や家族に迷惑をかけた事を悔やんで、また義昭は自分を責めてしまう。
そして気にし続けて、責任感に押し潰されて、一時的に病気のようになってしまうのだ。
とっくに自分は限界を迎え、これ以上義昭といたら完全に壊れてしまうと言うのに、義人は優しすぎるせいで彼を気遣うあまり、そんな事も忘れてしまっていた。
「義人ッ!!」
泣き続ける義昭を何とか立ち上がらせた義人の手を、藤崎が掴む。
やっと掴める距離に来たのに、自分に背を向けて、置いて行こうとしている彼を見るのが辛かった。
「久遠、行かせてやれ」
滝野の声だ。
「久遠」
光緒が義人を掴む藤崎の腕を引いた。
やめてやれ、と言っているのだ。
「、、、」
分かってる。
藤崎だって分かってはいるのだ。
手を離して、また明日迎えに来るねと笑い掛ければ良い。
義人は今は義昭についていたいと思っているだけであって、自分のところに帰ってこようとしてくれている。
分かってはいるのに、嫌な予感が胸の中をざわつかせて、肌が落ち着かない。
「、、久遠、ごめんね」
彼に振り向いた義人は、またぼたぼたと泣いていた。
本当はここで全部振り切って、いい加減、誰も自分を否定しないところに戻りたいのだ。
藤崎のそばにいたいのだ。
それが分かるあまりに、藤崎は手を離さなければならないと分かっているのに義人が理解ができないから離せなかった。
もう限界だと見ていれば分かるのに、何故自分を大切にしてくれないのか。
どうして優しすぎてしまうのか。
藤崎は他人を思うばかりにどんどん傷付いていく義人の見るのが何より辛く悲しいのに、彼はそれを分かってくれない。
(こんなにボロボロなのに、こんなに壊れそうなのに、何で、)
ここで彼に笑い掛ける、物分かりのいいよく出来た男になりたい。
けれどなれない。
ギリ、と奥歯を噛み締め、表情を歪めて義人を見つめたが、けれど、次の言葉で身を引くしかないのだと思ってしまった。
「放っとけない、ごめん。お父さん、だから」
「ッ、」
その声で、パタ、と彼の手を離した。
「、、お願いだから自分のこと傷付けないで。俺たち2人で考えることを、1人で考えないで」
「うん、」
「絶対に自分のこと傷付けないで、義人。約束して」
「、、うん。約束する」
「明日もう1回来るから」
「うん、、うん」
泣きながら頷くと、義昭の腕を肩に回して、兄弟2人は何とか父を家まで運んで行く。
「、、、」
その姿を藤崎は見つめている事しかできなくて、ただただ胸が苦しくて、義人に触れていた左手をグッと爪を立てて握り締めた。
「藤崎くん」
「、はい」
咲恵の声に返事を返すと、「あの人ら追い払ってくる」と、滝野と光緒は門前にいる人間達を睨みに向かった。
代わりに、前田を置いた恭次が庭に入ってくる。
「あの、義人のお母さんっ」
「え、、あれ?恭次くん?」
懐かしい顔に、恐る恐る藤崎に声を掛けた咲恵の表情がパッと明るくなった。
「お久しぶりです。あの、藤崎くん達をここまで連れて来たのは僕なんです。それで、少しお話しさせていただきたいんですが、」
「ええ、あの、、私も藤崎くんと、少しお話ししたくてね、」
咲恵は弱ったように笑って、藤崎を見上げた。
「僕も、本当はご家族とお話ししたかったんですが、」
「うん、そうだよね、ごめんね。あんな電話されたら心配になるよね」
まだ少しフラつくのか、頭を押さえる咲恵を藤崎と恭次は気遣った。
けれど大丈夫だと彼女が言って、結局、門前にいた人間達が見事に散ったので、庭から出て門を閉め、義昭が窓からこちらを覗いたとしても見えないところまで歩いてから道路の隅で少し話す事にした。
「突然押し掛けてしまって、申し訳ありませんでした」
藤崎がバッと頭を下げると、これ以上混乱がないようにと駆け付けてくれた恭次も一緒になって頭を下げる。
「お父様も困惑させてしまったみたいで、」
「いいえ、全然。いいのいいの、頭を上げて。ね」
咲恵は落ち着いた様子でそう言った。
「あの人は、と言うか、私達古い頭してるから、同性愛とかゲイって言うのがよく分かってなくて、それで、今日も義人を病院に連れて行ったりしてしまって、、ああ、違うの。こんな話しがしたいんじゃなくて、」
「はい」
話し方が義人に似ている。
考えてみれば、ものすごい剣幕だったにしろ義昭のあの顔つきよりもやはり咲恵に義人は顔が似ていた。
佐藤家の庭の塀沿いに立つと、背の高い木の下は少し涼しく、火照ったような身体の熱が消されていく。
滝野と光緒は恭次に置いて行かれた前田と合流して、また誰か人が集まってこないだろうなと付近を警戒してくれている。
「うん、あのね、話したかったのは、義人とのことなんだけど」
そして咲恵は一度大きく深呼吸をしてから、そのまま本題を話し始めた。
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