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第102話「混乱」
「お父さん、歩いて。もう少しだから歩いて」
「ごめんなっ、ごめん、ごめん、お父さんが悪いんだ、お父さんがッ、お父さんがお前に厳しくしたから、お父さんが、ッ」
「歩いて、お父さん」
肩にかかる体重は思ったより軽かった。
藤崎と筋トレに励んでいたせいで、義人が気が付かない内に前よりもかなり筋肉がついていたのだ。
反対側の腕を肩に回して父を持ち上げている昭一郎は、この情けないくらいの父の姿を見ていられず、前を向いたまま歯を食いしばっている。
もう少しで玄関のドアの前だ。
「義人、ごめんな、ごめんな、昭一郎、ごめんな、」
「お父さん、歩けって!大丈夫だから!」
同性愛は病気ではない。
義昭が原因で義人に重圧がかかり、鬱病になりかけている。
藤崎が義人を迎えに来た。
自分よりも冷静で、義人を宝物のように抱き締める、よく出来た雰囲気の男だった。
何もかもが頭の中をすごい速さで巡っていて、義昭はもう考えたくもなくて、頭の中の整理もせず、ただ自分が悪かったのだと思ってひたすらに謝っていた。
それが彼にとって今できる1番簡単な逃げ方だったからだ。
「義人、ごめんなあ、ごめんなあ、」
玄関に着くと、義人が家の鍵をポケットから出して鍵穴に差し込み、ガチャンガチャンと2つある鍵をどちらも開けた。
昭一郎が何とか義昭を立たせてくれている内にドアを開け、開き切って止まったままにして父親の身体を中に入れる。
日光が当たらなくなった瞬間、身体はフッと涼しくなった。
「、、ごめん、俺少し話して、」
「行かないでくれッ!!義人!!義人ッ!!」
「っ、、」
義人が踵を返して藤崎に何か言いに行こうとした瞬間、廊下に座って昭一郎に靴を脱がされていた義昭が急に立ち上がり、彼の腕に縋り付いて、玄関のタイルの上に膝をついてしまった。
「お父さん、話してくるだけだから」
「行かせないからなッ!!お前はうちの、ッ、うちの息子なんだッ!!」
「、、、」
かつてこんなに必要とされた事がない。
こんなときでしか、と流石の義人も思った。
実家に帰って来いと言われたのだって今回が初めてだった。
それくらいに義昭は義人に無関心だったと言うのに、何故そんなにも自分に縋るのだろうかと彼は不思議でならないのだ。
愛してもらった記憶がない訳ではない。
充分にある。
けれどあの受験失敗のときから、約束を破られてから、大学受験でまた頬を引っ叩かれてから、どんなに願っても無関心を貫いてきたくせに今更、と思ってしまうのだ。
「兄ちゃん、俺が伝えて来るよ。何か言いたいことあるんでしょ?藤崎さんに」
「、、明日、迎えに来てって、言って」
「ん、分かった」
もう離れないといけないんだ。
腕に縋り付いて来るこの人も、縋り付かれている自分も壊れてしまいそうじゃないか。
義人は鰐渕に言われた通りにしようと決めた。
何年がかりになるか分からないけれど、ゆっくり折り合いをつけるしかないのだ、と。
「お父さん、立てる?身体痛くなるから、リビング行こうよ」
昭一郎が開けたままだったドアから出て、ガチャン、と重たい音を立ててドアを閉めてくれた。
自分の腕に縋り付く義昭を見下ろしてから、義人は優しく声をかけながらその場に座り込んだ。
玄関のタイルは焦茶色で、良く見ると小さな石や砂、髪の毛が落ちている。
(大掃除のとき、仏壇と玄関当番だったなあ)
小さい頃の話しだが、年末の大掃除で昭一郎と一緒に割り当てられるのはいつもこの玄関の掃除と仏壇の掃除だったな、と呑気にそんな事を考えた。
タイルの上を掃いて、外にある玄関マットの上も穿いて、それから水が洗いもする。
小学校まではそんな風にしていた。
(あれ、?)
そして気がつけば、また父に抱きしめられていた。
「お前の、幸せのためなんだッ」
「お、お父さん?」
ズッ、ズッと鼻を吸う音が耳の後ろから聞こえて来る。
低い声は、やはり頼りない程か細くて聞こえにくく、義人は会話をする為に耳を澄ませた。
「お前に幸せになってほしいだけなのに、ッ、なんでこんなことになるんだ、、!!」
幸せ。
今更いったい何を言うんだ、と義人は目の前に広がっている廊下を見つめた。
自分にとっての幸せは藤崎といる事で、彼と別れない事だ。
だったのに、先程藤崎の目の前で義昭が言った台詞は、まるで家族を守る優しい父親の言葉そのままだった。
自分と藤崎の幸せを壊そうとしている人間のそれではなかったのだ。
「、、、」
自分にとっての幸せとは何だ。
こんなに人を悲しませる恋をしている自分達は何なんだ。
家族なんだ、と言ったその言葉には、藤崎すらだいぶ狼狽えている様に見えた。
ただ愛し合っているだけなのに、こんなに人を苦しめるのか、と、未知の感覚を持つ人間を目の当たりにして、罪悪感を感じて、表情を歪ませていた。
(久遠)
もう分からなくなってしまった。
それは恐らく藤崎も同じで、彼らは今、お互いが愛し合う理由や別れてはいけない理由を探し始めてしまっている。
それくらいに、義昭の言葉が義人と藤崎の胸には突き刺さってしまったのだ。
「女の子じゃだめなのか。麻子ちゃんでも、もう誰でもいい。お前が幸せに結婚して、笑いあって暮らせる子なら、どんな子でもいい」
これがきっと、義昭がここまで騒ぎ立ててしまっている根本的な理由なのだろう。
抱きしめる腕が、微かに震えている。
義人は唖然としながら、頭になだれ込んでくる父の言葉を受け止めていた。
「お前の子供の顔が見たい。孫の顔が見たい」
「ッ、」
言ってくれるな。
そう思っていた台詞は、義昭自身も言わないでおこうとしてここまで黙っていたのだろうと思う。
彼は彼なりに、今まで散々している様でいて、義人を傷つけない様にしてきたつもりなのだ。
「お前がその子にどう教えてもいい。おじいちゃんは酷い人だとでも、近づくなと教えてもなんでもいい。顔が見れればそれだけで、もう俺は死んでもいい」
死ぬ。
(死ぬ?)
父親が死ぬ。
義人の喉がゴクン、と嫌な音を立てて喉の奥に唾を追いやった。
この腕の中の、確かに死んでしまいそうな父親からそんな言葉が出てしまう日が来ようとは、と、心苦しくて堪らない。
聞きたくなかった。
親が死ぬなんてまだ考えたくない。
確かに帰って来なかった間にまた老けたとは思っていたし、担いだ体重が軽かったのも驚いた。
それでもまだ「死」を考えたくはない。
父方の祖母も、母方の祖父母もまだ生きている。
まだ、親の死を思いたくはない。
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