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第105話「暗雲」

正午を告げる鐘はとっくに鳴り終わっていた。 午後12時半を回って、藤崎達は前田の車に乗って帰路をつき、咲恵と昭一郎は家の中に戻った。 「お父さん、?」 そして、リビングのソファに1人で座り込む父の姿を見つけた。 「兄ちゃんは?」 「部屋に戻った」 「あ。そっか」 家の中は静まり返っている。 午前5時の喧嘩も、車庫の前での藤崎と義人の束の間の逢瀬も嘘のように、夏休みの空気は全てを取り込んで遠くしてしまっていた。 そう言えば昼飯を食べていなかったなあと思いつつ、母に何か作って欲しいと言うのも気まずくて、「買って来ようか」と声をかける為に後ろを振り向いて、玄関から咲恵がついて来ていない事に気が付いた。 「あれ?お母さん?」 「、ん。ごめん」 「お母さん?」 咲恵は玄関の廊下に座って、靴を脱がずに頭を抱えていた。 「どしたのッ!?」 「んー、ちょっと怠くなってきちゃった。お昼どうしようか」 明らかに体調が悪そうで、顔色も悪い。 「そんなんいいよ、俺なんか買って来るし。それより頭、やっぱ強く打ってたんでしょ?病院行こ、何かあったら嫌だよ」 「大丈夫大丈夫。ちょっと疲れてるのもあるのかも。お母さん、お昼いいから義人とお父さんの分も何か買って来てくれる?」 やんわりと笑ってやっと靴を脱ぎ始めた咲恵に、昭一郎は慌てて言い返す。 「ダメだよ、病院!!」 「いいから、ね。大丈夫大丈夫。少し寝るね」 「お母さん、、」 心配事が増えるばかりだった。 テキトーに近くにあるコンビニで何か買ってこようと決め、義人も義昭も何でも良いだろうと、咲恵が自分のベッドに横になったのを確認してから彼は家を出た。 (機能不全家族って感じ) その言葉を辞書で引いたりはしていないが、字面から連想すると今の佐藤家にはピッタリのように思えた。 しかし、もう誰が悪いとかは分からなかった。 義人に対して未だに、何故藤崎でないといけないのかと問いたい気持ちももちろんあるが、目の前であんなに嬉しそうに抱き合われてしまっては言うに言えない。 (俺だって、優希ちゃんともし付き合えて、別れろって言われたら普通に嫌だし) 考えてみれば、親や家族に指図される恋愛とは歪にも思えた。 確かに義人の恋愛は昭一郎とは違って同性同士のものだが、SNSでよく見る海外の同性カップルや、洋画に出てくるゲイ、又は洋画に出ている俳優達も、同性婚を果たして養子を授かったりもしている。 「、、この世って、何なんだろ」 そもそも多数派だった異性恋愛が当たり前なのは何故か。 少数派だった同性恋愛が否定され続けるのは何故なのか。 義昭はどうしてそこまで義人を認められないのか。 考えては見たものの、やはり頭の中は混乱するばかりだ。 けれど、この夏の陽射しの下で抱き合った兄とその恋人があまりにも美しく、しっくりと形がはまって見えたのは事実だった。 愛し合っているんだなと、いやでも分かる組み合わせだった。 昭一郎は誰もいなくなった家の前の道路で立ち止まり、自分の家を振り返った。 「、、兄ちゃんには狭すぎんのかも」 昔から、優しくて、人好きされるのにそれを避けるところがある、掴みどころのない兄だった。 なのに今は同性の恋人ができて、恭次もいて、その他にも心配そうに駆けつけてくれる友人達がいる。 大学では、この家にいたままではできなかっただろう人達に囲まれて、佐藤義人は生き生きとしていたのだろうと昭一郎は思った。 (親離れ、子離れ、か) 自分がその立場だったら、とも考えた。 自分に同性の恋人ができて、それは今、彼が優希に抱く感情と何ら差のない愛情を持った関係で、壊されそうになったとしたら、どう感じるだろうか。 家族に反対され、親に泣かれて、病院にまで連れて行かれて。 あんまりだなと、思うのだ。 「、、、」 真っ白な壁の家。 周りには黒い格子状の柵があり、庭と道路は門扉で隔てられている。 兄をここで死なせたくないな、とどこかでぼんやり、そんな事を考えた。 コン コン 「、、お母さん」 「?、義人?」 カチャ、とあまり響かないようにドアを開けた。 両親の寝室に入るのは久々で、義人は暫く静かにしていた自室からそろそろと足音を忍ばせて、義昭に気が付かれないようにこの部屋まで来た。 同じ柄の違う色の布団がかかったベッドがひとつずつ置いてある部屋だ。 「どうしたの?」 母は寝ていたようで、暗い部屋の中でもぞもぞと動いて、ドアから離れている方のベッドの上で寝返りを打ってこちらを見上げている。 「頭、やっぱり痛いんでしょ」 昭一郎がコンビニに出て行く前に騒いだ声は、義人の部屋にまで聞こえていたのだ。 彼がいなくなって少ししてから2階から降りて来た義人は、泣くのを堪え、死んだような顔で母を見ていた。 「大丈夫。寝たら良くなるよ」 顔色が良くないくせに。 「、、死んだりしない、?」 「なに縁起でもないこと言ってるの、やめてよ。大丈夫。ちょっとね、なんて言うのかな。頭の中がツーンとしてるだけ。それに、疲れちゃって」 彼がベッドのそばまで来ると、咲恵は弱ったように笑って見せた。 それなりに空腹を感じられるようになってきたから、大事ではないのだ。 ただ脳が揺さぶられた衝撃が残っているのと最近の疲れが出てしまっただけで、少し眠れば良くなるだろうと分かっている。 それでも、彼女の息子は不安そうだった。 「そんな顔しないの。ほら。こんなに早く死ねないから。それより明日、藤崎くん来てくれるって。お父さんも多分いないから、ゆっくり話そうね。良い?」 「、、、」 「格好いい子じゃない、優しそうで。2人の話しが聞きたいから、たくさん聞かせてね」 「、、ごめんね」 「え?」 気分を明るくして欲しくて始めた会話を裏切り、義人は静かにそう呟いた。 疲れ切った、と言う顔に、咲恵は何となく、また義昭が彼に何か言ったのではないかと思った。 「何で謝るの」 「こんな息子で、ごめんね」 「何でそんなこと言うのッ!」 起きあがろうとしたのだが、やはりズキンと頭が痛んだ。 少し眠らないと痛みは取れそうにはなく、「うう」と低く唸るしかない。 「義人、謝らなくて良いんだよ」 「、、、」 「何にも悪くないでしょ。分かってるでしょ?お父さんとお母さんが頭が固すぎただけだから、ね?分かってるよね?」 「、、、少しでも良いから寝て」 義人には分からなかった。 いつもと同様、謝らなければいけないような気がしたから謝っていた。 父があんな風に落ち込んでしまっているのも、悩んで苦しんでいるのも自分のせい。 母が突き飛ばされて倒れ込み、頭を打って今寝込んでいるのも自分のせい。 藤崎に迷惑を掛けて、要らぬ心配をさせて、振り回して、苦しめているのも自分。 そうとしか考えられず、義人には謝る事しかできなかったのだ。 「義人」 「上にいるから、何かあったら呼んで」 「義人、、」 息子は疲れ果てていた。 限界は超えてしまっていて、瞬きをして呼吸をしてここにいるのに、まるでそこにいないような生気の無さだった。 (全部俺が悪いんだ) 咲恵に布団をかけ直し、義人はまた足音を忍ばせて2階へ上がった。 自室の中に入ると珍しく鍵を閉め、ボーッとし始める。 過去、そう言えば自分で自分を殴っていた時期にこうして鍵を閉めた日があった。 薄い壁越しに、隣の部屋までゴッゴッと言う音が聞こえるらしく、昭一郎が「開けて!!」と騒いだ事を覚えている。 彼はずっと、義人が自分を傷付ける姿を見るのが特に嫌そうな顔をしていた。 (藤崎も、きっと怒る) ベッドに倒れ込むと、ぼんやりと藤崎の事を考えた。 久々に触れたように感じた体温の愛しさや、硬い身体の感触を思い出して、優しい声で呼ばれる心地良さに目を閉じる。 『義人』 何度だって呼ばれたい。 何度だって触れたい。 でも、どうしよう。 「久遠、、」 義人は疲れてしまった。 何もかもに。

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