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第116話「息子」

どうして子供を望んだのだろう。 医者にする為か。 親父が自分にしたような厳しさを、八つ当たりのようにぶつける相手が欲しかったからか。 いや、そうじゃない。 そうじゃないんだよ、義人。 「ッ、!」 開けようとした引き戸の向こうから、パンッと頬を叩くような音が響いてきた。 咄嗟に取っ手を掴み、義昭はスーッと動く音の出ないそのドアを開けて、薄く淡い緑色のカーテンがかかった病室に入ろうとして、脚を止めた。 「死ねなかったって、どういうこと?」 「、、、」 ガタン、と何かが動く音がする。 (何の話しだ、、?) そのとき、どうして乗り込まずにドアを開けたまま立ち止まってしまったのかは分からない。 カーテンに遮られて姿は見えないが、舐め腐っていた義人の恋人だと名乗る男が病室内にいて、異様な雰囲気を醸し出していたからかもしれない。 「じゃあもう俺に会えなくて良かったんだ?」 「ち、違う!!」 「何が違うの?」 義人の声に食ってかかる藤崎の発言に、義昭は苛立ちを覚えた。 乗り込んでやろう。 何か言ってやらねば、腹の虫が治らないと思った。 この男はまさか、日常的に義人を殴ってきたんじゃないだろうか。 明らかに息子が暴力を振るわれていると分かる現状に、やはり、と義昭は病室に一歩足を踏み入れる。 「、、怖くしてごめん」 「!」 しかし、藤崎の声はすぐに、苛立ちを堪えるように義人に謝った。 「叩いて、ごめん」 (何だこいつ) 情緒不安定なのか。 心療内科に行かせた方がいいのではないか、と彼はまた極端な事を考えていた。 義人が手首を切って意識が戻らず、救急車を呼んで病院に搬送されて、傷付いていた正中神経の縫合手術を行った、と一件の全てを義昭が昭一郎から聞いたのは、午後15時の、自分が勤めている病院の小休憩の時だった。 関係している患者への手術の説明等が終わって、やっと一息つき、20分後からまた他の患者への説明に赴くと言うその間に、何の気無しにいつもは見ないプライベート携帯を見た。 昭一郎からの異常な数の着信に怖くなって電話をし返すと、やっと全てを聞かされたのだ。 (俺のせいだ、) 義昭は、義人の意識が術後も戻らないと聞いて愕然とした。 もし、死んでしまったらどうしよう。 自分が死ぬ訳でもないのに、命は大丈夫そうだと昭一郎から聞いたのに、義人を育ててきた21年間の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。 やっと生まれてきてくれた長男で、何もかも手がかかった。 生まれたときから自分には似ておらず、小さいながらに「お顔、お母さん似だね」と言われるのが少し悔しかった。 可愛くて、愛しくて、絶対守り抜いて、大きくなっても欲しいものは全部買ってやりたかった。 大学にも行かせて、何不自由なく暮らさせる。 嫁さんを貰わせるのも惜しいくらい、ずっとそばに置いておきたいくらい、可愛くて、可愛くて。 滑り台を滑り降りるのが下手で、ローラー滑り台に乗せたとき、お尻が熱くなって痒くなったと泣いたあの子が。 手首を切って、腕を水に入れて、死のうとした。 「ッ、!!!」 呼吸をおかしくしながら、義昭は何とか患者への手術内容の説明をする時間を早めてもらい、上司にも部下にも事情を説明して、病院から抜け出したのが16時だった。 そこから車で20分。 手が震えて自分では運転ができず、仕方なくタクシーを呼んで飛ばしてもらってここまで来た。 (俺のせいだ、俺のせいだ、義人、義人ッ) 落ち着かなくて手を組んだまま、タクシーの中で一言も喋らずに、ただ全身に力を入れて祈った。 どうかあの子を奪わないで。 どうか助けて。 何度も何度も願いながら急いできた病室には、既に藤崎がいた。 いや、昭一郎から聞いた話によれば、義昭に黙ったまま藤崎を家に呼び、本当は4人で少し話そうとしていたと言っていた。 そして、義人が自室にいないと分かった瞬間に、真っ先に事に気が付いて風呂場まで走って行ったのは藤崎だとも聞いた。 「、、、」 一体彼は何なのだろうか。 もしかしたらそんな疑問と、知ろうと言う意志が、義昭の足を駆け付けた病室の入り口で止めていたのかもしれない。 「でも今回だけは、ちゃんと怒りたい。分かって欲しいから。そうじゃないと義人がまた同じことするのが目に見えてるから」 「、、久遠」 「俺を見て。ちゃんと話したい」 「、、、」 義昭は黙ってそこで動かずにいた。 自分と違い、義人を責め立ててばかりでない藤崎が不思議に思えたのだ。 そんな物言いで義人が話し出すだろうか。 本気で怒鳴り合うくらいにならなければ、自分の意見を口にできないようになってしまっているのに。 義昭は義人のそう言う、自分の意見をハッキリと言えないところも気に入っていなかった。 「俺は、久遠を好きなのが、やめられないからっ、でも、それで家族が悲しむなら、その前に、、どっちかが悲しむなら、俺がいなくなればって、思って、」 「、?」 けれど義昭の予想とは違い、義人は泣きながらも何とか言葉を吐き出した。 (あ、?) おかしいな、と彼は思った。 美大に行きたいと言ったとき、信じられない事が2つ起きたと思った。 自分にほとんど反抗せず、何にでも「はい」「ごめんなさい」と答えるようになってしまっていた義人が自分の意思で美大に行きたい、と言った事。 それから、医者にならないと言った事だ。 「、、、」 それなのに、義人は藤崎相手にはちゃんと自分の気持ちを吐き出している。 いや、まだまだ含みがたくさんあって、吐き出し切った訳ではないのだろうが、少なくとも、言わねば、と必死になっているのは分かった。 「義人がいなくなったら、俺も、義人の家族も、どっちも悲しむよ」 「でも、だって、一瞬だよ、、一瞬、悲しませるけど、でもその後は、」 「終わらないよ。だって俺はずっと義人が好きだから。義人が1人で勝手に死んだら、俺はずーっと義人のことを想いながら1人ぼっちで生きてくよ」 この子達は、何を言っているのだろうか。 義昭はたまらなく不安になって、思わず胸を押さえていた。 (一瞬?、、息子が死んだ親の悲しみが、一瞬で終わる訳がない) 義人の意識が戻っていた事は喜ばしいが、けれど、その言葉は信じられなかった。 そんなにも自分の命を軽んじるように育てた覚えはないのに、彼には何も伝わっていなかったと言うのか、と、俯いて自分の靴を見つめる。 (どうして、そんなことを思うんだ、、) 「ぇ、な、何言ってんの」 「悲しい。義人は酷い。俺のこと残して1人で楽になるんだろ?俺が傷付いても、悲しくても、寂しくても、置いていくんだろ?」 「違う、違う違う違う!!そうじゃない、!!」 「だったらなに」 「俺は久遠の将来が、」 「俺の将来じゃない。2人の将来だよ。何で俺を1人にするの」 「違うんだってば、!!」 ああ、あの子は本気で義人を怒っているのか。 あの子が命を捨てようとした事を、それがどんなに愚かで馬鹿な事かを教えようとしてくれているのか。 見つめた先の薄い緑色のカーテンの向こうで、どんな顔をして向かい合っているのだろう、と2人の事を思った。 「1人にしてって俺が望んだ?辛いから義人に死んで欲しいって頼んだ?」 藤崎久遠と言う人間を彼はあまり知らないが、けれど、立派な男の子なのだろうと改めて思った。 自分ではこんなに冷静に話せない。 リストカットなんて、跡の残る馬鹿な事を!と、きっと彼を責め立てて、また一言も発せないように義人を怒り続けてしまうと思ったのだ。 そして藤崎のものいいと、それを聞こう、そして話そうとしている義人のやりとりを聞いて、自分がどれだけ義人を抑圧して黙り込ませていたのかが浮き彫りになって、胸が苦しくなっていた。 (こんなに話す子だったのか) 義人は小さい頃はお喋りで、昭一郎ができてからは彼の様子を逐一報告してくるような息子だった。 「お父さん今日ね、」 と1日にあった事を全部話して聞かせてくれる。 仕事から早く帰ってこれた日は風呂に入りながらよく話していた。 幼稚園のこと、友達のこと、虫を捕まえたこと、泥だんごのこと、川遊びのこと。 いつからだったろうか。 義人と話さなくなったのは。 彼が口を閉し始めたのは。 「、、、」 懐かしい記憶とはあまりにもかけ離れてしまったと思っていたのに、目の前にいる見えない義人は必死に藤崎と話している。 俺はここにいる。 俺の話を聞いて。 俺の考えを知って。 そんなに必死に声を張れるのだと、義昭は初めて知った。 そして、ここ数日の間に、自分は彼と何を話しただろうかと思い返した。 「頼んでないけど!!でも!!」 「じゃあ別れよ」 「ッ、嫌だ!!」 「俺は義人が死ぬくらいなら、義人の家族が分かってくれるまで別れてたって良い」 「え、、?」 藤崎の声は力強く、何とも頼もしくて、意志があった。 きっと芯の強い子だ。 昨日見た見た目にも視線にも、それは十分に表れていた。 「その期間会うなって言われれば会わない。最後に義人が俺のところに来てくれるならどんな我慢だってする」 「、、、」 彼は、本当に義人が好きなのだ。 溢れ出てくる言葉を聞いていれば、冷静になった義昭にもそれが痛い程に分かった。 「いたっ」 「いい加減にしろよ、大馬鹿」 「久遠、?、、久遠、ごめん、な、泣かないで、ごめん、泣かせたかったんじゃない、」 ああ、泣いてくれるのか。 ああ、そんなに愛しそうに義人は彼を呼ぶのか。 同性愛とは、いったい何なんだろう。 2人の会話を聞きながらそんな事を考えていると、「お父さん」と小さく呼ぶ声が聞こえた。 「、、、」 数歩離れたところに、廊下の先に咲恵が立ってこちらを見ていた。 「どうしたの?入らないの?」 何かを察したのか、とても小さい声でそう聞かれる。 彼女は隣まで来て少しだけ開けたドアから病室を覗き込んだ。 「?」 「、、少し、聞いてたいんだ」 義昭のその穏やかな声に、咲恵は息を吐きながらゆっくりと笑って返す。 「久遠、ごめん。離れたくない、き、嫌いにならないで、そばにいて」 「死のうとしたくせに。死ねなかったって言ったくせに、今更そんなこと言われても信じられない」 「お願いそばにいて、嫌だ。1人にしないで、久遠といたい、、久遠といたいから、」 「1人になろうとしたのも、俺から離れようとしたのも全部自分だろ」 「あ、、、ご、めん、なさい」 義人の話す声が聞こえて、咲恵はホッとしている。 起きたのだ、と胸を撫で下ろした。 そして、藤崎との会話を彼女も静かに聞く事にした。 今なら何となく、義昭にも何かが分かるのではないかと思ったのだ。 隣に立つ彼があまりにも悲しそうに、そして優しい表情で病室の中のカーテンを眺めていたからだ。 「あ、あれ?、あれ、あれ、?」 義人が必死に自分のしでかしたことを理解しようとしている。 理解できないと言う事が親にとってはとてつもなく悲しかったが、今は願うしかなかった。 自殺とは何か。 自分を傷つけるとはどう言う事か。 そして、それを教えられるのはきっと、義人が向き合おうとしている藤崎だけなのだと、両親はどこかで感じてしまった。 自分達ではダメだ、と。 無力にも、「頑張れ」と見守っているしかなかった。 「義人が死ぬより嫌なことなんかないんだよ」 その言葉は重たく、彼らの胸にも響いてくる。 「ごめん、俺、な、何、しようと、、良い考えに思えたんだ。俺が死んだら全部終わるなあって、、俺が、俺だけが、いなくなればっ、藤崎は次の好きな人を見つけられるし、でもたまには、俺のこと、きっと思い出してくれるし、俺がいなくなれば、っ、、お、お父さん、」 「、?」 義昭はカーテンを見つめる視線を細めた。 「もう、くッ、く、っ、く、苦しくないよなって、」 「、、、」 その瞬間、ぼろ、と涙が溢れた。

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