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第127話「成長」
髪を乾かしてからベッドに移動すると、昼食を取った後の腹の苦しさはすでに消えていて、久々に寝転がるシーツが心地よく、眠気が襲ってきた。
「寝そう」
そう言ったのは藤崎の方だった。
「寝る?」
義人は彼の横に寝転がり、ベッドに肘をついて手のひらの上に頭を乗せると、隣の藤崎の頭へ左手を伸ばして撫でる。
まだまだ暑い中で、寝室のクーラーは忙しそうに風を吐き出している。
「ヤる」
「んは。寝る?にヤる、で答えんなよ。下品か」
左手の包帯は今朝巻き直してもらったので、風呂の間だけつけていたビニール袋を取っただけで後は何もしていない。
もう血が滲む事も何もないのだが、藤崎は頭を撫でている義人の左手をチラリと見て、少し恐る恐るでその手に触れた。
「、、、」
「どしたの」
「義人」
「ん?ん、」
軽く左の手首を握られたまま、ドサ、とシーツの上に押し倒され、覆い被さってくる藤崎を見上げる。
彼越しに、見知った天井が見えた。
「んんっ」
塞がれた唇から、ぬる、と厚みのある舌が口内に入ってくると、何だか気恥ずかしくて、初めてセックスした日を思い出して、思わず身を捩った。
「逃げないで」
「ぁ、んっ」
優しく丁寧なキスだ。
シーツに腕を縫い付けられながら、しっかりと味わわれている。
「く、ぉん、んっ」
「好きだよ」
義人はその苦しげな声にハッとして、舌を絡められながら藤崎を見上げた。
「義人、好きだ」
眉間に寄った皺が見える。
泣き出しそうな深い茶色の瞳に自分が写っているのも。
「っ、久遠、ごめんね、久遠」
「どこにも行かないで」
「ンンッ、!」
今度は奪われるように激しくて、噛み付かれているように息が出来ない。
そんな手荒なキスで、思考が止まった。
「んっ、んふ、んっ」
「ん、好きだ、義人」
「っん、、ん、んむっ」
ああ、こんなになるまで抱え込ませてしまっていたのか。
義人は藤崎の縋るようなキスを受け止めながら、彼の背中に腕を回してゆっくりと撫でた。
考えてみれば、少しガードが緩いだけでもすぐに女の子だって勘違いするのだからちゃんと対応して欲しいとワガママを漏らすようになった藤崎が今回の1件で一切弱った部分を見せなかった事が異常だった。
義人と言う人間に対してだけは異常に執着し、およそ一般的に愛と呼べる限りの行動や扱いを彼に向けて愛情表現をしてくる藤崎が、義人の自殺未遂を目の当たりにし、あの冷たい体温の抜けきった身体に触れても動揺せずに持ち堪えたのは意地だったのだろう。
「久遠、ま、って、!」
「義人、」
「ぁ、」
絶対に失うわけにはいかない。
置いて行かせない。
そんな気持ちでずっといたのだろう。
「もうあんなことしないで」
唇が離れると、険しい表情をした藤崎がこちらを見下ろしていた。
涼しい部屋の中で熱くなった身体を落ち着かせるように呼吸しながら、義人はそんな彼を見上げて切なそうに視線を細めた。
頼れば良かったし、2人で考えれば何とかなると信じれば良かった。
自分を傷付けて、1人で背負い込んでこの世から消えさえすれば誰にも迷惑がかからないなんて事はない。
自分が死んで誰かが負う悲しみや傷なんて一瞬のものだなんて事は、決してない。
少なくとも、藤崎にとって「義人の死」はどんな事よりも恐ろしくて不快で、悲しいものだ。
それを信じず、裏切ってしまったのは義人自身だ。
「しない、、絶対しないから信じて」
自殺未遂ですら藤崎の心をこんなにも傷付けてしまった。
彼からの信頼をぐちゃぐちゃにしてしまった。
その悲しみや苦しみを、今になるまで見せずにいてくれたのだと考えると余計に胸が締め付けられた。
「信じさせて」
「、、好きだよ、久遠」
「俺を置いて行かないで」
「ごめん。もうしない。絶対にしない」
何度も何度も謝って欲しい訳ではなかったが、藤崎自身、義人が家に戻ってきた事で緊張の糸が切れてしまった。
我慢していた筈の彼を責めるような言葉が止まらない。
「信じられない」
「久遠のそばにいる」
「本当、?」
見下ろした先の彼は、傷ができる前よりも何処か晴々としていて、自信に満ちているように思える。
藤崎は意志の強さの籠った義人の言葉を聞いて、腕を掴んでいる手の力を緩めた。
「コレがきっかけで俺達と義人の家族との関係が改善した訳じゃないんだよ」
その変わりようを否定したい訳でも、責めたい訳でもないのだが、何か間違えてはいないかと更に言葉を連ねた。
「うん」
「こんなものなくていいんだよ」
「うん」
掴んだままの腕を見下ろして、巻かれた包帯の清潔そうな白色を見つめてから再び義人の真っ黒な目を見る。
その目には、もういつぞやの恐れや不安というものがないように思えた。
「こんなものなくても、俺は、」
「久遠」
右手で泣き出しそうな藤崎の顔に触れる。
左手が薄らと震えているのは、痛みではなく、力が入らないからだ。
「ごめん」
「謝って、欲しい訳じゃない」
「分かってる。でも言葉が見つからない」
「、、、」
「偉そうにしてごめん、でも、分かってるよ」
義人は藤崎が自分の何を不安に思ってこの話をしているのかが理解できていた。
自分を傷付ける事で解決の糸口になってしまった今回の騒動を癖にしたくないのだ。
これがどんなに重たい間違えで、どれだけ馬鹿な事かを理解して欲しいと思われているのだと。
「こんなのなくても、久遠と自分を信じるべきだった」
だから今一度、真実、「解っている」から大丈夫だ、と彼に伝えようと口を開いた。
「家族を諦める勇気をもっと早くから持つべきだった。分かり合える道を探すことに時間をかけて良いんだって気がつくべきだった」
「、、、」
藤崎はその言葉を静かに聞いている。
「久遠」
「、、、」
「愛してる」
「え、」
彼の驚く顔は珍しい。
いつもは義人が驚かされてばかりだから。
「ずーっとそばにいて」
キョトンとしたその顔に苦笑しながら、義人は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「、、義人がどっか行くでしょ」
「行かないよ」
藤崎らしくない皮肉な言葉に掴まれていた左手をするりと解かせて、また彼の顔に伸ばす。
むにっとやたらと柔らかい頬を両手で包むと、義人はふわりと優しく微笑んで、藤崎を安心させるように言った。
「俺は、久遠が思ってるよりもっと、もっと、久遠のことが好きなんだよ」
今回の件で良かった点は、正直あまりない。
自分が手首を切ってしまった時点で、家族との関係や藤崎との信頼度を考えても、プラマイ0か、あるいはマイナスだ。
けれど敢えて言うならば、「これ以上馬鹿な事はしない」と、何故か義人は自分を信頼する事ができていた。
決して、それも良い事とは言い切れない。
信頼するに至るまでの経緯がやはり最悪だからだ。
それでもこれを機にもっと藤崎と向き合おう、自分を信じようと思えた。
死ななくて良かった、とも、死にたくない、とも思えた。
(やり方はまずかったけど、)
そう思えるようになったのは義人にとって大きな変化だった。
そしてもうこんな馬鹿な事はしないと思えたのも、大きな大きな進歩だった。
自分を軽んじる事をいつかはやめなければ藤崎が離れて行くだろうと思っていた彼としては、自分の中で歯止めがかかった事が嬉しかったのだ。
代償に左腕がうまく動かなくなるのも避けたいと思えるくらいには、がめつく「幸せ」に縋りつこうと思えているくらいに。
「だから、絶対、どこにも行かない。死んでも久遠といる」
「、、うん」
どこまでも今回の騒動は間違えだ。
それだけは分かっているけれど、それでも自分が変われた事が義人は嬉しい。
藤崎はほんの少し我慢して、そんな義人を受け入れる事にした。
前よりも明確に自信がついた義人を否定したくはない。
それから、もう二度とこんな事はしないだろうと、何故だかハッキリと信じられたからだ。
「久遠」
「ん?」
「どこにも行かないから、抱け」
「こういうときだけ誘い方上手いよね」
ニヒッとイタズラっぽく笑った彼があまりにも可愛らしくて、藤崎としては説教はここまでにしてもうがっつきたい気持ちが優ってしまった。
頬を包んだ温かい手に誘われるままにご機嫌な義人の唇を塞ぎ、下唇を舐め上げると、受け入れるように口が開く。
「ん、」
「義人」
「んん、」
あったかいなあ、なんて思いながら軽く舌を合わせる。
くすぐったいような子供っぽいキスだった。
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