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第7話

 天気予報が雨を告げる日が増えた。雨が降らなくてもじめじめとして、シャツが肌に纏わりついて不快な日も増えた。こうなってくると白衣を羽織るのも億劫だ。白衣を椅子にかけておく時間も増えた。  家庭科の調理実習で軽い火傷をした生徒を送り出したところで、入れ違いで来宮が入ってきた。制服は半袖の夏服になっていた。まだ日に焼けていない白い腕が剥き出しになっている。 「あれ? せんせぇ、白衣着てないんですか?」  保健室に来て早々に、保健医の白衣の有無を気にするのか。呆れてしまう。そういえば来宮が保健室に来るのは久し振りだった。夜に駅まで送った日が最後だったから、あのときの効果が効いたのか、そもそも三島に飽きたのか。これだけの期間会わなかったのだから、三島に飽きたのだろう。三島としても来宮とは会いづらかったので、これは好都合だった。 「うん、暑いから」  なるべく平静を装って答える。手は、ガーゼやアルコール綿の補充を機械的に行っていた。久方振りに来宮の顔を見て、こんなに気分の上がる自分をなんとか抑える。 「えー、僕、せんせぇの白衣、好きなのに」  唇を尖らせる横顔に三島の口元が緩んで、慌てて引き締めた。あくまでも平静に。他の生徒と同じような対応を。「今日は何しに来たの?」 「カッターで手、切っちゃいました」  そう言って左手をひらひらと見せてきた。親指の背からたらたらと赤い血が流れている。本人は痛そうな表情はせず、腕を伝いそうになる血液にティッシュペーパーを当てていた。随分盛大にカッターナイフを使ったようだ。三島は慌てず、切り傷用の対応を準備した。 「傷、見せて」  三島の指示に、来宮は大人しく従う。けれど口は大人しくなかった。 「ねえ、せんせぇ、舐めてよ」 「は?」何をだ。ガーゼを挟んだピンセットを片手にぽかんとしていると、来宮はくすくすと笑う。 「だって、傷って舐めると早く治るんでしょ?」  爪を切り揃えられたかたちのよい指をまじまじと見てしまう。圧迫している傷口からはまだじわじわと血が出ている。来宮の顔を窺うと、眼鏡の奥の目が悪戯っ子のそれだ。三島には飽きたのかと思ったけれど、そうではないらしい。遊ばれている。 「こっちの方が清潔だから」  滲み出してくる血液のなくなったのを確認して、絆創膏をはってやる。 「はい、これで完了」  足で踏んで蓋を開けるタイプのごみ箱を踏んで、絆創膏のごみを捨てる。同じようにして別のごみ箱に、来宮の血の着いたガーゼを捨てた。 「ねえ、せんせぇ」  来室者ボードに名前を書きながら、来宮が三島を呼んだ。盗み見たボードに書かれている字は、やはり線が細くてきれいだった。 「何?」  諸々の片付けが済んで、手の空いた三島が来宮の方を向く。 「もう少しここにいてもいいですか?」  来宮にしては珍しく、気弱な目をしていた。 「サボるつもりなら、教室に帰んなよ」  一応言うべきことは言っておく。 「でも相談なら聞く」  三島の言葉に、来宮はわかりやすくぱぁと晴れやかな表情になった。これは騙されたかな、と内心苦い顔になる。 「相談です。恋愛の相談って聞いてくれます?」  ああ、来宮はこの短期間で新しい恋愛対象を見付けたんだな、と思った。移り気な来宮のことだから、充分あり得る。その事実がほんの少し寂しい。けれどそれが来宮のためになる。 「ねえ、せんせぇ。僕好きな人がいるんです」 「そう」と応じた三島の声が遠く聞こえる。今度は誰を好きになったのか。 「でも、その人、全然だめで。だめっていうのは、脈なし、ってことです」  脈がないなら、三島のところに帰ってくればいいのに、なんて無責任なことを考える。 「それで?」  それでも来宮の話を促す。来宮は、スラックスの腿の部分を握ったり離したりを繰り返す。「えっと、」「あの、」とか何とか言って、中々話を切り出す様子もない。なんだか煮え切らない。 「それで、でも、僕もそろそろ限界なんです」  消え入りそうな声で来宮が言う。黒髪の合間から見え隠れする耳の先が真赤だ。「手繋ぎたいし、キス、したいし、もっとたくさん話したいんです……」ただでさえ小さな声が、段々と聞き取りづらくなる。来宮の目線も段々と下がっていって、今は自分の爪先を凝視している。  こんなこと、本人に言ったら怒られるだろうけれど、思春期の恋愛は可愛らしい。大人になったら何となく踏んでいく段階を、こんなにも意識している。  大人の三島の意見としては、何となく様子を窺って、進展が見込めなさそうだったら他をあたればいい。恋愛対象は世界にひとりしかいないわけじゃない。なのだけれど、これを来宮に言うわけにはいかない。保健医として適切なアドバイスとは何だろう。うーん、と唸ってしまう。 「せんせ?」  来宮が三島の顔色をおずおずと窺ってくる。 「……脈がなくても、来宮の気持ちはちゃんと伝えたの? 来宮の一方通行じゃ、だめなんじゃない?」  絞り出した答えは、なんて中身のないアドバイスだろう。でもそれ以上に何が言えるだろうか。  一方来宮は本当に消えてしまいそうだった。握った手が震えている。 「振られちゃったら、どうすればいいんですか」  振られても次がある、は余りにも可哀想な答えだなと思う。三島の失恋など、どうということない。今日は深酒をして、でもきっと電子タバコは吸えない。その程度で忘れるだろう。忘れられなくても、忘れる振りはできる。でも酒にすら逃げられない未成年は大変だ。 「まだ振られるって決まってないでしょ」  マイナス思考はよくない。きっと不安でそうなっているのだ。あれだけ根の強い来宮が弱気になるなんて、本気で惚れているんだな、と思う。三島があと十年遅く生まれて、来宮と同級生だったなら、よかったのに。  す、と目尻を赤くした来宮が顔を上げた。レンズ越しにも、今にも泣きそうな目をしている。かたく閉じた唇が開く。 「振られるんです。もう決まっているんです。僕はせんせぇが好きです」

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