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第9話

 あんなことをすれば、来宮は来ないと思っていた。あれは完全に悪い大人のすることである。本音の部分ではともかく、理性の部分では三島はあれが最後になるかもしれないと思っていた。来宮の心にちょっとだけ傷をつけて、ピアスホールのひとつになるのも悪くはない。  それなのに梅雨も明けそうな頃、来宮は「せんせぇ」とあの舌足らずな声で、保健室の扉を開けた。そのときの三島の顔は随分間抜けな顔をしていたと思う。 「きの、みや?」  手にしていたボールペンは机の上に落ちた。ころん、と安いボールペンが机の上で転がる。  来宮が後ろ手に扉を閉める。今日も第一ボタンまできちんと留めて、スラックスにはアイロンがかかっていて、優等生のふうだ。 「はい、来宮吉野です」  澄まして答えられてしまう。そんなことはもう充分な程知っている。三島が訊きたいのは、 「なんで」  来たんだ。  その質問に、来宮はこてん、と首を傾げる。黒髪がさら、と流れて右耳のピアスがきらきらと光った。 「だってせんせぇが『またおいで』って言ったんじゃないですか」  一瞬来宮の目がすっと細くなって、ネコ科の目になる。これは、また来宮の爪先でいいように遊ばれるのだろうか。「言ったけれども」  普通来るだろうか。どんな顔をして来たのだ。まじまじと来宮の顔を見てしまう。眼鏡のレンズ越しに目を細めた来宮と目が合う。 「普通、来るもの?」  あんなひどい仕打ちを受けたことが、わかっていないのだろうか。 「来たらだめですか?」  わかっていないのかもしれない。  ゆっくりと来宮が近付いてくる。たまに靴と床が擦れて、きゅっと鳴る。未発達な四肢の上にまだ幼さの残る顔が載っていて、あの日の罪悪感が首をもたげる。 「せんせぇ、『相談』です」  楽しそうにやってきた来宮は、三島の正面で足を止めた。あの捕食性の動物の目で、三島を見下ろしてくる。その目を見返せなかった。 「手の繋ぎ方を教えて?」 「はい」と三島の目の前に来宮の右手が差し出される。爪の切りそろえられた、清潔な手だ。思わずその手と来宮の顔を見比べる。来宮は薄っすらと口角を持ち上げていた。  生徒である来宮の方から繋げばそれは事故だけれど、三島の方から意図的に繋いだらだめだ。今さらどの口が言うか、という問題だけれど、生徒に手は出せない。  戸惑っていると、来宮が追い打ちをしかけてきた。 「せんせぇ、こーがいむよーってなんでしたっけ?」  嫌なことを言う。思わず舌打ちしそうになって、寸でのところで思い留まった。もう一度無理矢理キスしてしまっているから、罪の上塗りにしかならない。  三島よりも一回り近く小さい来宮の右手をとる。来宮の手はひんやりとしていた。それを握ってみせる。 「はい」  来宮の口元が緩む。だから「これでいい?」と目顔で尋ねてみる。そんな気弱な三島の内心を読んだらしい来宮は、ちょっと不機嫌な顔になった。失敗した。 「恋人って、どうやって繋ぐんですか?」  明らかに煽られている。「せんせぇ、教えて?」なんて可愛らしく言われてしまうと、もう惚れた弱みでしかない。 「恋人、ってなに」  一応突っ込んでおく。そうしたら思いの外来宮が吃驚した顔をした。 「せんせぇは、恋人以外の人とキス、するんですか?」  それは十代の純粋さなんだけれどなあ、と三島は苦笑する。大人になると好きでない人ともキスするんだ、とはまだ教えない方がいいだろう。情操教育上絶対によろしくない。 「そうだね」  ゆっくりと来宮の指に三島の指を絡ませていく。こうして見ると、来宮の手は成長途中だという感じが強くする。 「これでいい?」  来宮の表情を伺いながら尋ねる。来宮はしばらく繋いだ三島の手を眺めていたと思ったら、細い指先で三島の手の甲を撫でてみたりする。そうやって一通り堪能すると、ふふ、と満足げに小さく笑う。 「せんせぇ、僕のこと、ちゃんと好きですか?」  ネコ科の目が獲物を捕らえた目をしていた。

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