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第5話 泥の香り
いつ自分が眠ってしまったのか、翌朝目を覚ました時も黒鳶には思い出せなかった。裸の体はなめらかな毛布に包まれていたが、ひたいと頬は朝の冷たい空気に触れている。草と樹々のにおい、水と濡れた土のにおいが鼻をくすぐる。
まばたきすると黄色い髪が視界を覆った。
「おはよう」
山吹の手が頬に触れ、すぐに離れた。黒鳶はあわてて起き上がった。テラスに面した窓が大きく開け放たれ、朝の森の風がカーテンを揺らしている。山吹は全裸だ。黒鳶は惜しげなくさらされた褐色の裸身を正面からみてしまい、頬を赤らめた。
「おはよう、あの……」
「今日は休日なんだ。朝の散歩に行かないか?」
「散歩?」
聞き返したそのとき、山吹の姿が変わりはじめた。
黄色い髪のあいだから鹿の耳が伸び、床についた両手両足が蹄にかわる。胴体にまとった黄色の毛皮には褐色の斑点が散らばっている。角の生えた鹿の首が黒鳶に向き、眸の底で金色の光が輝く。みるからに健康でたくましい雄の鹿。黒鳶は獣の美しさに息をのんだ。
鹿の首が窓の方へ向けられる。
行こう。
言葉にならない誘いを断ることはとうていできなかった。黒鳶は毛布を跳ねのけ、裸のまま床に足をつく。都会では獣型をとることがめったにない。前に変身したのはいつだっただろう?
それでも本能が消えてなくなることはけっしてない。四つ足で立つと腰が軽くなり、割れた蹄は床をかろやかに踏む。黒鳶は黒い毛皮につつまれたしなやかな体で山吹の隣にならんだ。斑鹿の特徴である斑点は白で、背中から腰にかけて星のように散らばっている。
きれいだ。
山吹がそういった。獣のすがたになったとき、鹿族は耳や尻尾のわずかな角度や他の種族にはききとれないほど小さな声で意思を伝えるのだ。黒鳶の尾が褒められた喜びでぴょこりと動いた。獣型になると、人の姿をとったときほど感情を抑えられないのだ。
獣の目でみた世界はわくわくする動きと色に満ちていた。獣の姿で見聞きする世界は人の姿でみるものとはちがっている。水が流れる音、木の葉がこすれる音は人の姿でいるときよりずっと際立ち、わずかな動きも黒鳶の注意をひきつける。
山吹が跳ねるようにして森へ駆け出し、黒鳶もあとに続く。鹿の四肢は木の根を軽々と飛び越え、身軽に木立のあいだを駆け抜ける。細い道を跳ねていく山吹に黒鳶はらくらくとついていった。追いかけっこをするように朝日がさす草地へ飛びこんでいく。獣の姿で駆けるのはなんて楽しいんだろう!
かすかに甘い水のにおいが黒鳶の鼻をくすぐった。それにかぐわしい土――泥の匂いがすぐ近くから漂ってくる。黒鳶が求めた練り香のにおいだ。
黒鳶は立ち止まり、雫がしたたり落ちる音の方へ耳を向けたが、そのときすばやく隣に立った山吹が胴をこすりつけるようにして押しつけてきた。獣の姿になった山吹の体はもっと野性的で、力強くて、魅力的だった。
黒鳶は負けじと押し返し、二頭の鹿は蹄を柔らかい地面にめりこませて泥遊びをはじめた。いいにおいのする泥を毛皮に撥ね飛ばしながら、お互いの首筋をこすりつけあう。森の泉の泥は黒々として、明るい色をした山吹の毛皮に黒いまだらが飛んだようにみえる。反対に黒鳶に跳ねた泥は星のような白いまだらを隠した。
ふつうの鹿族の毛皮にはこんな模様はない。学生の頃、獣に変身した姿をみられるのが黒鳶は嫌いだった。幼い仔の鹿族には毛皮の一部にうすい斑点があらわれるが、成長するにつれて消える。口の悪い連中は――どの種族も――成長しても子供のような斑点があるといって黒鳶をからかった。
ここではそんなことを気にしなくていい。前肢で泥をこねまわし、山吹と体を押しあうだけのことが途方もなく楽しく、純粋な喜びに心が震える。しかも、それだけではない――泥の香りと山吹のにおいが混ざりあって、黒鳶の全身に昨夜の快感の記憶がよみがえってくる。するとたちまち心臓がどきどきしはじめた。
――あっちへ行こう
山吹が小さな声で鳴いた。すぐさま泥を跳ねながら水音の鳴る方へ駆け出す。黒鳶はあわててついていき、木立の向こうに小さな岩場があるのを知った。直立した石の壁を薄く覆うように水が流れ落ちていく。さらに先で小さな水路を満たし、木の根のあいだからまた地面の下にもぐっていく。
山吹は滝へ向かって走りながらなめらかな動作で姿を変えた。褐色の足は慣れた様子で泉の水を蹴散らし、滝の真下へ向かっていく。
黒鳶はほんのわずか躊躇した。山吹のまっすぐな笑顔が飛びこんでくる。
「こいよ!」
笑顔の下にある褐色の肉体をみつめたとたん、黒鳶の体はかっと火照って、人の姿に変わりはじめた。裸足でそっと水に足を踏み入れ、滝の下にいる山吹に向かって慣れない足取りで進んでいく。泉の底は石畳が敷かれているように平坦だ。近づくにつれ、山吹の股間で上を向いている雄がいやおうなく目に入った。腋の下や股のあいだが熱くなり、足もとの水とはちがう液体でじっとりと濡れる。
「ここは俺たちの水遊び場なんだ。ほら、気持ちいいだろう?」
岩をつたう滝のそばで黒鳶の肩を抱いた山吹の腕も胸も熱く、背中や胸に飛ぶ水は火照りをちょうどよく冷ました。山吹は黒鳶の体にはねた泥をこすりおとし、胸のとがりをさすった。黒鳶は息を飲んだ。
「今も、濡れてるよね……」
太腿のあいだをまさぐる指が、黒鳶が分泌した蜜をすくいとる。その刺激にあおられたようにまた蜜があふれた。腋の下から垂れた雫がわき腹をつたい、尻の方へ流れていく。
なめらかな石の壁に背中を押しつけられ、黒鳶は山吹の唇を受けとめ、強く吸った。キスをしながら頭の上から降ってくる日差しを意識する。どうしよう、森の中で、裸で抱きあっているなんて――都会育ちの黒鳶の頭は羞恥でどうにかなりそうなのに、水と蜜で濡れた体の欲情は止まらないばかりか、もっと、もっと、と求めてくるのだ。
「……あっ……んっ……山吹……ああんっ」
唇が離れたとたん、尻の中――昨夜指で広げられた場所をまさぐられて、黒鳶は甘い声をあげてしまう。指が中をいったりきたりするたびに、黒鳶はまた蜜をあふれさせた。
「気持ちいい?」
「う、うん……」
「もっと気持ちよくさせたい」
昂っている黒鳶自身は山吹の雄とこすれあって、それだけでもたまらない快感だ。でも別種の快楽を知った体はもっと先を欲していた。もっと激しく、もっと深くまで来てほしい。山吹とひとつになりたい。
黒鳶は甘えるように顎を山吹の胸にこすりつけた。
「山吹、ね、もっと……」
「黒鳶……」
「こわくない……から……つがって……」
「いいの?」
「今……今がいい……」
息を飲んだ気配のあとすぐにキスが降ってきた。体の中をさぐっていた指が消えて、黒鳶は腰をふるふると揺らす。離れていった唇を追おうとしたが、山吹はそっと肩を抱き、黒鳶を石の壁の隅へといざなった。黒鳶はうながされるままに岩の壁の方を向き、手をついて腰を突き出した。
「いくよ……」
背後から山吹の両手が黒鳶をささえる。黒鳶の下半身は自分でも恥ずかしくなるほどの蜜で濡れそぼっていた。堅く太い山吹の雄を蜜と指にほぐされた黒鳶の体はゆっくりのみこんでいく。
「んっ、んっ……あっ、ああっ」
「黒鳶……入ってるよ……大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……あっ、あああああんっ、あん、はぁ、はっ、はあああん」
「ああ、いい……いいよ、ああ」
「ぼ、僕も――あんっ、ああん、すき、山吹、ああんっ」
熱い楔につらぬかれ、揺さぶられるたびに、黒鳶の頭の芯に白い光が飛ぶ。ここが森の中なのも忘れて、黒鳶の唇からは甘い声がとめどもなくあふれだした。
「あふっ……ああっ、はぁ、あ――」
「ああ、俺も好き――はっ、んっ――」
何度も強く打ちつけられた果てに、山吹が大きく息を吐く。黒鳶の膝は衝撃と快感で震えていた。このまま水の中に倒れこんでしまいそうだ。山吹の腕に支えられ、石の壁に寄りかかる。ついばむような軽く甘いキスを受けながら、この瞬間がいつまでも続けばいいと願った。
ふたりはまた鹿の姿に変わったが、今度はゆっくり歩いて黒鳶の離れに戻った。きれいに体を拭い、服を着る。戸口の外にはバスケットが置いてあった。
「朝ごはんだ。母さんが用意してくれた」と山吹がいう。
「何から何まで――なんだか申し訳ない」
「黒鳶が遠くから来てくれたからだ。都会から来た斑鹿族を迎えるなんて、はじめてなんだよ」
ふたりはテラスで朝食を食べた。燻製肉と野菜を挟んだパンと果物に、甘酸っぱい冷たい飲み物だ。そのあいだも黒鳶の脇腹は山吹にぴったり寄り添い、肘が何度も触れて、絡みあう。山吹の指が果物のひと切れをさしだして、黒鳶の口元に運ぶ。果実はつるりと黒鳶の喉を通り抜けたが、山吹の指はまだ黒鳶の唇に触れていた。おそるおそる舌をのばして指に触れると口の中にするりと入りこんでくる。
「ああ、黒鳶……」山吹がうめいた。
「そんな顔……されると、たまらない」
結局その日は午後遅くまでベッドで抱きあって過ごした。休日のせいか山吹を呼ぶ声もなかった。夕方になってやっと恰好を整えたふたりが母屋の庭へ出ていくと、意味深なめくばせを交わす人々に迎えられた。昨日はみかけなかった若者も数人いる。
「忙しい一日だったみたいだな」
山吹は男衆にからかうような声をかけられて「うるさいな」と返した。黒鳶は昨夜とおなじように山吹の隣で夕食をとった。
その夜、黒鳶は離れの小屋でひとりで眠ったが、山吹は遅くまで黒鳶の隣に座り、腕をからませ、髪を撫でていた。翌日黒鳶が目覚めると製造所はもう活動をはじめていた。小屋の前には朝食のバスケットが置いてあったが、山吹の姿は見えない。小屋を出て製造所へ歩いていく途中、忙しそうに働いている山吹が見えた。黒鳶に大きく手を振り「おはよう」という。
黒鳶も挨拶を返したが、すぐに山吹は製造所に入ってしまった。当たり前だ。自分は休暇だが、他の人たちは仕事中なのだ。
それから数日のあいだ、黒鳶は村のあちこちを歩き回り、製造所を何軒も見学し、直売所の村人や卸商人たちと話をして過ごした。いつのまにか、黒鳶はずっと縁が切れていた山吹の一族のひとりで、香料などいっさい関係ない都会からはるばる親族を訪ねてきた、ということになっていた。そのせいか誰もが黒鳶の素朴な質問――このあたりの気候や地形、交通についてや、香料の商売の諸事について――暇つぶしがてらに答えてくれた。おかげで黒鳶は生来の引っ込み思案をしばし忘れ、この村にすこし馴染んだ。
夕食は最初の晩とおなじように大人数でとった。黒鳶は毎日山吹のとなりに座ったが、最初の日には見かけなかった若い鹿族が男女問わず、黒鳶や山吹を囲むようになったのに気づいた。彼らにみられると黒鳶はなぜかどぎまぎしてしまい、話しかけられてもうまく答えられなかった。当たり前だが山吹は彼らに親し気に応じていて、そんな様子をみると黒鳶はがっかりしたような、寂しい気持ちを味わった。
でも、夕食がおわると山吹は黒鳶の小屋に来て、ふたりはまたベッドの上で抱きあった。最初の時のように長い交わりではなかったし、山吹は黒鳶が眠ったあとに小屋を離れてしまったが、それでも黒鳶は嬉しかった。山吹の体からは黒鳶の目的である練り香の香りがした。
あっというまに村を離れる日がやってきた。
「お金はいいよ」
山吹の母親は銀色の缶を前にして首をふり、山吹も口をすっぱくして何度も、これは贈り物だ、といったが、黒鳶は譲らなかった。
「こんなにお世話になって、ただでもらうなんて、できません」
黒鳶が頑固にくりかえすと、ついに母親の方が折れた。黒鳶は代金を払い、くりかえし感謝を告げたが、山吹はいつのまにかいなくなっていた。
黒鳶は急いでいた。乗合自動車の時刻が迫っていたのだ。
「山吹? 山吹……」
早足で歩いていると、夕食のときに会った若い鹿族が山吹に話しかけているのがみえた。この村で生まれ育った者らしく、日焼けして健康的で、すらりと伸びた肢体をもっている。黒鳶の目には雄も雌もみな輝いてみえた。日当たりの悪い都市でしょんぼり暮らす自分とは大違いだ。
山吹もいずれ、彼らの誰かとつがいになるのだろう。
最初の夜に覚悟していたつもりだったのに、そう考えると刺すような寂しさに捕らえられて、がまんできなくなった。
黒鳶は荷物をもって足早に製造所を離れた。村の中心部へ戻ると、ちょうど乗合自動車がついたところだった。他の客はみな狐族の商人である。
乗合自動車は小石を蹴散らしながら走り出した。狐族の話し声が狭い車内にぼそぼそ響く。黒鳶はふと自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がしたが、それも運転手が窓を閉めるまでのことだった。車は斑鹿族の森から離れていく。黒鳶は銀色の缶をおさめた鞄を膝にしっかり抱えて、揺れる車の中に座っていた。
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