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第6話 川の流れに

 官舎の部屋は静かで、色がなかった。  黒鳶は空気を入れ替えようと窓をあけたが、外にみえる色も灰色の壁ばかりだ。森の緑や木の葉のそよぐ音、虫の声が無性に恋しかった。ベッドの上に荷物を広げ、持ち帰った『大地の精油』の缶に手をかける。軽くひねっただけで、鹿族の棲む森や香料の製造所、それに山吹のにおいがこぼれ出た。  いや、山吹のにおいと思ったのは錯覚だ、と黒鳶は考え直す。山吹はもっと――もっとぞくぞくさせるにおいがした。抱きしめられただけでおかしくなってしまうような、そんなにおいだった。  あらためて鹿族の村で手に入れた『大地の精油』をすこしだけ指にとる。香料屋にもらった見本より格段に強く、良い香りだった。大事に使わなければ、と黒鳶は思った。この香りは自分とあの森をつないでいるのだ。  自分自身のにおいを隠すという当初の理由を忘れていることに、黒鳶は気づかなかった。  職場はいつもの通りだった。上司も同僚も、仕事の内容も。それなのにひどく退屈に感じられて、黒鳶は何度もため息をつきそうになった。休暇明けなのだから仕事をつまらないと思うのは当たり前だ、と自分にいいきかせようとしてみた。それなのに何かおかしい。自分の感覚の奥深くにある何かが変わったような気がする。 「休暇のあいだ、なにかあった?」 「え?」  昼休み、いつもなら挨拶を交わす程度の狼族の同僚が話しかけてきて、黒鳶は面食らった。 「いや、すこし雰囲気が変わったような気がしてさ。どこへ行ったんだい?」 「森林地帯です」 「ずいぶん遠くまで行ったね。楽しかった?」 「はい。とても」  黒鳶は言葉すくなに答えたが、同僚がいなくなったとたん、これまで感じたことのない寂しさが押し寄せてきた。どうして自分はこんなところにいるのだろう。  いや、そんな風に思うのはおかしい。黒鳶はずっとこの都市で生き、ここに満足していたのだから。たしかに休暇は楽しかった。黒鳶はまたあの村に行くこともあるだろう。山吹に会うこともできる。そこまで考えて黒鳶はぎくりとした。あの村で、山吹が自分以外の斑鹿族と親しくしているのをみても、自分は平気でいられるだろうか。  それにしても、同僚がいったように黒鳶はすこし変わったらしかった。最近は街を歩いているとき、以前はなかったようなことが起きるのだ。街角インタビューで声をかけられたり、鹿族のグループに遊ばないかと声をかけられたり。この都市に住む鹿族は少ないはずなのに、黒鳶はなぜか道で鹿族とよく行き会うようになった。知らない鹿族に何度も声をかけられると、偶然だとも思えなくなった。まるで鹿族同士、引き寄せあっているようだ。  でもここには山吹がいない。  眠るとよく山吹の夢をみた。  鹿の姿で森を駆けている山吹もみたし、人の姿で黒鳶の髪を撫で、ついばむようなキスを落としたり、笑いかけてくれる山吹もみた。夢をみているあいだはとても幸せなのに、目覚めた黒鳶は殺風景な白い天井を眺めている。体が山吹を恋しがって、しくしく疼いた。彼のぬくもりを思い出しながら自分を慰めても、むなしさがつのるばかりだ。  手紙を出そうと何度か考えた。黒鳶は山吹に居所を伝えないまま村を出てしまったが、黒鳶のほうから山吹に連絡をとることはできるのだ。『大地の精油』の缶の裏には製造所の所在地が書いてあった。でも何を書けばいい?  あたりさわりのないことでかまわない。とても楽しい休暇を過ごせたとか、単なるお礼でもいい――あれこれと考えをめぐらせたのに、いざ書きはじめようとすると黒鳶の手は止まった。山吹が若い鹿族と一緒にいる姿が頭を駆け巡る。自分は一時の滞在者にすぎない。手紙を送ったからといって、どうなるのだろう?  結局、手紙は出さなかった。  それでも黒鳶は毎日、森林地帯を気にして過ごすようになった。新聞でかの地のニュースを毎日探した。山吹の村が新聞に登場することはなかったが、周辺の地域で開かれている行事や祭り、事件に詳しくなった。かの地の天気も毎日新聞でたしかめた。森林地帯の気候は黒鳶の都市とはちがっている。かの地では乾季のあとすこしの期間、暑熱の毎日が続く。そしてまた雨季が訪れる。  黒鳶は森に降る雨の夢をみた。夢のなかでは甘い水が木の根をつたって流れ、泥が芳醇な香りをはなつ。  大事に使っていたのに『大地の精油』は数か月でなくなってしまった。黒鳶は落ちつかない気分で何日かすごした。自分自身のにおいが気になるからではなく、自分にいつも寄り添ってくれる半身を失ったような気がするのだ。空の缶を何度も開け閉めしたあと、黒鳶はまたあの香料屋へ足を運んだ。  香料屋は以前訪れたときと何も変わっていなかったが、店の男は黒鳶を覚えていないようだ。黒鳶はカウンターにずらりと並ぶ香りの見本を横目に『大地の精油』はないかとたずねた。 「ああ、それは数が少なくてね。今はちょっと……」 「前にここで見本をもらったんです」 「見本? ああ、あの時の」  男はやっと黒鳶を思い出したようだ。 「あの香りは製造所と直接取引をしているんだが、向こうが持ってくるのを待つしかなくてね。出荷量をふやせないか頼んでおいたが、天然の原料を使っているから先方も確約はできないらしい」 「粘土から雨のにおいを蒸留するんですよね」 「そうだよ。よく知っているね」  黒鳶の脳裏に製造所の光景がよみがえった。円盤状に整えられた粘土のかたまり、熱せられた窯、管からしたたりおちるエッセンス……。 「今日はべつの香りを探します」 「ああ、好きなだけ試すといい」  黒鳶は以前この店に来たときのように、透明な覆いをかけられた香料見本をじっくり見て回った。香りが染みこんだ白く丸い石が整然とならんでいる様子を眺めていると、なぜか夜空の星ぼしを連想した。残念ながらどの香りも黒鳶を惹きつけなかった。  店の男は黄色い明かりを灯した。いつのまにか相当な時間が経過しているのに気づき、黒鳶は焦った。せっかく来たのだし、何か買って行こう。そう思ったとき、背後で扉が開いた。 「どうも」 「お、いらっしゃるのは今日でしたか。珍しい、お二人ですか?」 「これは息子でね。そろそろこの手の仕事も任せようと思って」  黒鳶の背中は硬直した。話しているのはしゃがれた男の声で、聞き覚えはなかったが、においはちがった。黒鳶はゆっくり、そうっと、顔を横に向けた。黄色い髪が目に入った。 「ああ、お客さん」店の男がいった。 「実はこの方が『大地の精油』の製造者なんです。この時間まで粘ったのは運がよかった」  金茶の髪をした年配の鹿族の隣に山吹が立ち、目をまるくして黒鳶をみつめている。口元が小さく動いた。 「黒鳶?」  黒鳶はどうしたらいいのかわからなかった。嬉しくてたまらないのに、怯えたように心臓がどきどき鳴って、自分で自分を抑えられない。 「お客さん? 大丈夫――」  店の男がなにかいったが、黒鳶には聞こえなかった。獣の姿に変わったかのようにすばやく一直線に扉へ向かい、店を飛び出す。逃げ出すように小さな石段を駆け下りた。うしろから声が追ってきた。 「黒鳶!」  黒鳶は街路の石畳を走り出したが、追いかけてくる足音がきこえた。風がうしろから吹き、山吹のにおいを運んでくる。引き留められるように黒鳶の足は遅くなった。あっと思った時には山吹に腕をつかまれていた。 「黒鳶、待って」 「や、山吹……」  黒鳶は口をぱくぱくさせた。 「ど、どうしてここに……」 「取引先まで、おやじについて回ってるんだ。黒鳶を探してた。おやじはきっとこの町だろうって」 「え、それは……」 「黒鳶が村に来たとき、おやじが前に置いて行った見本の缶を持ってきただろう? 印があったから、どの店でもらったか見当がついたんだ」  山吹の手が黒鳶の腕をぎゅっとにぎる。 「黒鳶、どうして黙って帰ってしまったんだ。どうして連絡をくれなかった?」 「だって……」黒鳶はおどおどと周囲をみまわした。 「僕はきみの森の鹿じゃない。山吹のまわりには他の……きれいな斑鹿がたくさんいるから……僕はどうせ……」 「どうして」  街路で立ち話をしているふたりを好奇の目がかすめていく。山吹はさっとあたりを見回し、黒鳶の腕をひいて建物の影に連れて行こうとする。黒鳶はなすすべなく従った。心が動転していて、さっきはなぜ逃げ出したのかもわからなかったし、いま逃げ出せない理由もわからなかった。 「他の鹿だって? 黒鳶は俺のつがいだ。黒鳶はそう思ってなかった?」 「つがい……でも……」 「そうじゃなきゃ、こんな風にならない」  腕の中にぎゅっと抱きこまれたとたん、黒鳶の全身はたちまち甘い火照りに捕らわれた。とろり、と蜜が溢れるのがわかった。 「あ……山吹……」 「黒鳶は他の鹿とはちがう。ぜんぜんちがうんだ。最初に会った時から俺にはわかってた」  キスが降ってくる。黒鳶は逆らえなかった。山吹の唇は夢の中と同じように甘かった。ひとりで眠った夜に黒鳶が求めていたものだ。 「ねえ、店に戻っていい? おやじに断ってくる」  山吹がささやいたが、黒鳶は胸がいっぱいでなかなか言葉が出てこない。 「お父さんに……ごめん、僕が飛び出したから……」 「いいんだ。一緒に来て」 「山吹」 「ふたりだけになって、黒鳶を抱きしめたい」  喜びと驚きが入り混じった、自分でも区別のつかない気持ちに、黒鳶の胸の奥はきゅっと締まった。こんなに嬉しいのに苦しくてたまらないなんて、どういうわけだろう。  山吹は黒鳶を香料屋へ連れて戻ると、父親にあっさり紹介しただけでまた外に出た。 「おやじは知ってるから」と山吹はいった。 「知ってるって?」 「黒鳶が俺のつがいだって。母さんもわかってた」 「う、うん?」 「来て」  腕を引かれるまま山吹についていった先は小さなホテルだった。扉をあけて中に入ったとたん、黒鳶は息がとまりそうな勢いで抱きしめられ、壁に体を押しつけられた。股間や腋から抑えきれない蜜があふれ、下着を濡らす。さっきとはくらべものにならない勢いで激しく唇を吸われ、頭が甘い霞に覆われる。 「山吹、山吹……」  肌と肌のあいだに布があるのがもどかしかった。ふたりは腕をまわしたまま体をよじり、服を脱がせあったた。おたがいの蜜を擦りつけながらベッドに倒れ込み、重なって、また長い口づけを交わす。黒鳶の下肢はしとどに濡れ、欲望に昂った中心は触れられただけで爆発しそうになる。 「あっ……ああん、山吹……お願い……」  黒鳶は仰向けになって足をひらき、甘い声をあげてねだった。蜜に蕩けた体は山吹の雄をらくらくと受け入れる。奥へ何度も打ちつけられるたびに嬌声がこぼれた。山吹が与えてくれたのは肉の悦びだけではなかった。温かいものが黒鳶の心を満たしていく。 「黒鳶は役場で働いているんだろう」  ベッドで抱きあったまま山吹は黒鳶の髪を撫でた。 「次の休暇はいつ?」  黒鳶は日を数えた。次に長い休みがとれるのは年の変わり目になる。そう答えると、山吹は黒鳶を抱く力を強めた。 「俺のところへ来て」 「うん、行くよ」  黒鳶はためらわず返事をした。山吹の眸のなかで森の木々が揺れている。ここへおいで、と黒鳶を誘っているのだ。 「俺は森で待ってる。だけど、俺も黒鳶に会いに来るよ。俺たちはつがいだ」 「うん。……うん」  つがい。その言葉をきくとなぜか、黒鳶の胸はせつない気持ちでいっぱいになった。

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