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第6話
6.
その日は雨が降っていた。
明日は夏休み前の登校最終日。学校の中はすでに夏休み気分が満ちていて、生徒達はみんな浮かれていた。
俺以外は。
明日は半日で授業が終わるから、今日で放課後の読書タイムもしばらく休みになる。今日もまたあの人は来ないのかもしれない。俺は鞄から文庫本を取り出した。
あの人とは、あれ以来会っていない。校舎の中で、それとなく見かけないかと気にしていたが、ついぞ会うことはなかった。
――もしかして、幽霊だったのかも……
俺はふとそんなことを思ってぞっとした。
考えてみたら、俺があの人に会ったのはこの教室で、一人きりで居る時だけだった。
――まさか……ね。
俺は馬鹿馬鹿しい、と思って頭を振る。今の世の中幽霊なんているわけない。自分自身が幽霊みたいな存在になりたいと願ってはいたが、実際にいるとは思えなかった。
遠くで何かが光った気がした。
――雷……?
しばらくしてから、ゴロゴロと音がする。
「雨がひどくなるみたいだから、今日は早めに帰った方がいいぞ」
俺は外の雷に気を取られていたので、その人が教室に入って来ているのに気付いていなかった。突然声がしたので、驚いて体をびくりとさせて振り返る。
「なんだよ、幽霊見たみたいな顔して」
「あ……いえ、お久しぶりです」
あの人は……何だか、変ったように見えた。どこか元気がない。いや、元気じゃなくて、生気がないとでも言うんだろうか。いつもと同じようにきっちりとしたスーツ姿だったけど、そのスーツが体に合っていないように見えた。
――痩せた……?
顔色もどこか悪く見える。
――体調でも悪いんだろうか?
もしかしたら、校内で見かけなかったのは、具合が悪くて休んでいたからなのかもしれない。
「相変わらず、本読んでるんだな」
「はい……」
彼はいつものように、俺の前の席の椅子に跨がり、こちらを向いて座った。
「どれどれ、今日は何を読んでるんだ?」
机の上の文庫本を手に取り、表紙を見てにやっとする。
「夏目漱石のこころ……か」
「あの、先生……」
「……なに?」
「読んだんです……浅茅生 」
先生は少し黙った後、じっと俺の目を見て口を開いた。
「そう。……どうだった?」
「よく分かりません。……怖い話だと思いましたけど」
「そうだね。あれは、怖い話だね」
それだけですか? と俺は言いかけて、口を閉じた。彼はとても悲しい顔をしていた。
激しい雨音が静かな教室いっぱいに溢れるように満ちている。
あの人はしばらく窓の外を見た後、こちらにゆっくりと顔を向けた。
「……きみはね、俺の初恋の人に似ているんだ」
「……え?」
意味が、分からなかった。
あの人はゆっくりと立ち上がる。
「俺は、あの物語に出てくる女と同じなんだよ」
「……どういう意味ですか?」
「魅入られてるんだ……あいつに。最初に出会った時からずっと」
ゆらり、と空間が揺らいで歪んだような気がした。
「俺は……あいつに呼ばれてる」
「あいつって、誰ですか?」
「あいつは、俺を待ってるんだ」
そう言って、悲しい顔のまま、俺に笑顔を向けた。こんなに悲しい笑顔は見たことがなかった。
「あいつは俺を待ってる、ずっと待ってるって……そう言ったのに……二度と会えなかった。俺を置いて先に逝っちまったんだ」
その時、教室の中に稲妻の閃光が迸った。光の中に浮かんだあの人の顔は、まるで泣いているように見えた。次の瞬間、窓の外で爆音が響き渡る。
「……今外に出たら危ないから、雷が通り過ぎたら帰れよ。気を付けてな」
彼は教室を出て行った。
耳の奥底にこびりつくように、いつまでも雷鳴がうるさく付きまとっていた。
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