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第3話

翌朝。爽やかな風をその身に受けながら、今日も今日とて校門前に立つ。挨拶しながら通り過ぎていく生徒に手を振り、言葉を交わしながら、件の生徒が登校するのを今か今かと待ち受けていた。 (……いた) とぼとぼと一人で道を歩く(あずま)の姿が見えた。今日もマスクに顔の下半分を包んでいて、表情は全く読めない。 「東、おはよう」 直也(なおや)が声を掛けると、その場で立ち止まって不思議そうに直也を見上げる。感情の籠らない大きな黒い瞳が、爬虫類を連想させた。 「……おはようございます」 「今日はちゃんと外してるか?」 「…………」 黙って髪を耳に掛ける。穴は見えるが、昨日着けていたピアスの類は全く見当たらなかった。 「よしよし、偉いぞ〜」 ポンポンとつい癖で頭を撫でると、東はピクリともせずその場で固まってしまった。異様な反応に慌てて手を引く。 (おっとっと……) ボディタッチを嫌がる生徒もいる。その辺りをしっかり弁えないと、教師としてはやっていけない。これ以上は何もしない、という意思表示で手を後ろに回した。 「……もう行っていいですか」 「お、おう。引き留めて悪かったな」 逃げるように去っていく東に力無く手を振る。これから彼と距離を縮めていかねばならないというのに、最初からこんな調子で大丈夫だろうか。少し自信を失くして、その後の挨拶に支障が出たために、今日は早めに切り上げた。 午前中最後の授業を終わらせ、食堂へ続く階段を下りる。直也はいつも購買でパンを買って食べていた。 (あ〜、腹減った) 二階に差し掛かった所で、ふと妙な香りがすることに気づいて足を止める。薄くだが、シナモンのような、癖のある甘い香りがした。家庭科の調理実習は、今日は無かったはずだ。何より、二階にそんな設備のある教室は無い。 匂いの正体を突き止めるべく、二階の廊下を進む。声を掛けてくる生徒に尋ねてみたが、「そんな匂いしなくない?」と皆一様に言うだけだった。いよいよ自分の鼻がおかしくなったのかと疑いながら、一番匂いが濃く漂ってきている教室に辿り着いた。発生源は一番隅の空き教室だった。現在は使われていなくて、完全に物置きと化している。 「失礼しまーす……」 ガラガラ、と扉を恐る恐る開く。顔だけ出して覗いてみるが、誰もいないように見えた。念の為ぐるっと一周してみようと中に入る。窓が閉め切られていて、匂いが少し濃くなっていた。 (この中に何かあるはずなんだけどなぁ) そう思って何気なく後ろを振り返った途端、視界に黒い物が写った。教室の後ろ半分に追いやられた机の群れと、その陰に隠れるように座る人影。 「――うおっ!!」 ビックリして後ろに飛び退く。直也の悲鳴にビクリと肩を震わせた人影が、ゆるりと面を上げた。そこにいたのは東だった。 「先、生」 はあ、と吐息を零す唇が赤い。マスクが顎の下まで下がっていた。呼吸が荒いので、苦しくなって外したのかもしれない。頬は熱っぽく上気して、瞳も涙に潤んでいる。 「東、大丈夫か」 苦しそうな様子に駆け寄って体を支える。ぐったりとした体は熱く火照っていて、どうやら熱もあるようだ。 「風邪引いてたのか、気づかなくてごめんな。とりあえず保健室まで行こう。歩けそうか?」 ふるふると弱々しく首を振る。歩けないということかと思って膝に手を入れると、肩を押して抵抗された。 「御園(みその)先生、を」 「御園先生? 呼んでくればいいか?」 今度はこくりと頷く。そのままじっとしているように言い聞かせて、御園を探しに教室を出た。見つけるのにそう時間は掛からず、職員室にいた彼に声を掛ける。 「御園先生、ちょっと来てもらえますか」 「今度はなんだ」 「東が体調悪そうで……なんでかは分からないですけど、御園先生を呼んでほしいって言われたので」 「東が? ……まさか」 御園には心当たりがあったのか、血相を変えて教室に向かって行く。彼の後を追って教室に戻ると、東は先程よりも具合が悪そうだった。匂いも心なしか濃くなっている。 「東、薬だ。飲めるか」 「っ、は……い」 御園が体を抱え起こして、東に何かの薬を飲ませた。力の入っていない彼の背を壁にもたれかけさせて、御園が心配そうにしながら距離を取る。 「辛いな。タクシーを呼んで家に帰るか」 「…………っ」 「嫌か。なら病院がいいか?」 「やだ……」 ふむ、と御園が困ったように嘆息する。状況が飲み込めない直也は、黙って二人のやり取りを見つめていることしか出来なかった。 「……その人、アルファ、でしょう」 「え?」 「おい東っ」 熱に浮かされた瞳が直也を捉えた。首を傾げる直也の前に、御園が隠すように立ちはだかる。 「もう少し我慢しろ。そうすれば治まる。全部気の迷いだ」 「御園先生、これはどういう……」 「分からないか? ヒートになってるんだ」 「え……?」 ヒート。所謂オメガの発情期だ。そう言われてみても、直也にはまだピンと来なかった。何故なら――直也が何も感じていないからだ。 普通、オメガがヒート時に出すフェロモンはアルファをおびき寄せ、そしてアルファ自身も発情させる効果がある。それを利用して繁殖活動をするのだが、どちらかが抑制剤を飲めばその事象を防ぐことが出来るのだ。逆に言えば、それしか防ぐ方法はない。 しかし今、直也は抑制剤を飲んでいない。東は今まさに飲んだ所で、まだ効果が出ていないはずだ。それなのに直也が発情しないのは、ハッキリ言っておかしい。異常だ。 「……御園先生」 「なんだ」 「俺、抑制剤飲んでませんよ」 「何だと?」 直也の今更すぎる報告に、御園が信じられないというように眉を跳ね上げる。怒る気配を感じて身を竦めたが、その前に彼が何かに気づいたように怒気を和らげた。 「……待て。じゃあなんで発情してないんだ」 「それを俺も今考えてた所です」 「………………冗談だろう」 先に答えに行き着いた御園が、息を呑んで目を見開いた。東を見て、グッと歯を噛み締める。 「……東」 その声には悲しみが混じっていた。東がふらりと顔を上げる。 「――お前、番がいるのか」 「…………な」 こんな小さな子供に、番がいる。考えられる理由は限られていて、その中でも最悪の場合を御園は想定しているのだろう。にわかには信じられなかった。 東は何も発さない代わりに、皮肉っぽく口の端を上げて笑った。その無言が答えだった。

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