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第5話

今日もまた、見覚えのある人影に手を振る。 「おはよう(あずま)!」 「おはようございます」 毎朝、東が来るまで挨拶を続けるようになった。逆に、東が来たら挨拶を切り上げて、一緒に校内に入るようにしていた。廊下を歩きながら、東が冷めた目でこちらを流し見た。 「……毎朝、大変ですね」 「そんなことないぞ〜、毎朝皆の顔が見られて嬉しいし」 そう返すと、東は心底不思議そうな目で直也(なおや)を見つめた。彼には分からないかもしれないが、教師という生き物は、生徒が元気そうだと嬉しくなるものなのだ。 「ほら、もうそろそろテストだろ? 東、休んでた期間もあるから大変だろうし、分からない所とかあったら何でも聞いていいからな」 「はあ……」 大抵は何を言っても暖簾に腕押し、といった反応だ。だが、彼が時たま見せる笑顔や、驚いた表情が好きだった。大変な境遇に置かれた彼が、年相応の顔を見せてくれる瞬間に安堵を覚えた。 (きっと本当は感情豊かな子なんだろうけどなぁ) 虐待の影響で、感情の起伏に乏しくなってしまっているのだとしたら、それは悲しいことだ。周囲の人間と触れ合うことで、少しでも感情を取り戻すことが出来れば。その一心で、直也は彼に構い続けた。 「……じゃあ、」 「あれ、東……」 サッと振り返った拍子に、髪の毛が翻る。その隙間からチラリと覗いた鈍色に、嫌な予感が再来した。 「……またピアス開けたのか?」 「あ……」 「ほら、見せてみて」 「…………」 心なしか罰の悪そうな表情で、東が耳を露出させる。真新しい、所謂ファーストピアスが一つ、耳朶に開けた穴を塞いでいた。やれやれと肩を竦める。 「も〜……安定したらでいいから、ちゃんと外してから学校来るんだぞ」 「……はい」 東は聞き分けのいい子供だ。一度注意したら、その後は外して登校していたし、夏休みまで我慢してくれるものだと思っていた。 (な〜んで開けちゃったんだろな……) 拭えない違和感がこびりついて、直也の心に影を落とす。別れ際、彼から独特なシナモンの香りがふわりと香った。そういえば、それも注意しなければ。まだ課題は山積みだということに気がついて、一人で頭を抱えた。 その日の放課後。職員室から生徒指導室に向かう途中で、また例の匂いがしていることに気がついた。 「東……?」 またどこかでヒートを起こしてしまったのだろうか。それにしては早すぎる。匂いのする方へ向かうと、やはりあの空き教室からだった。 「東、いるのか?」 ガラリと扉を開け、中に入る。以前と同じように窓際に行くと、机の陰に彼の姿があった。 「せんせ……」 顔が赤い。呼吸も荒いし、どう見ても発情している。しかし、以前のヒートからまだ一月も経っていない。 「そこにいて。御園先生呼んでくるから」 「や、」 出て行こうとすると、弱々しく服の裾を掴んで引き留められる。とろんとした瞳が、縋るように直也を見上げていた。 「いかないで……」 不思議と従いたくなる声だった。頷きたくなるのを抑えて、その場にしゃがみ込んで目線を合わせる。 「……でも、薬を貰わないと」 「こんなの、すぐ治まります、から」 「どういうこと?」 「……誘発性の、ヒートです。短いから、薬は、飲まない方が」 誘発性のヒートは短い時間で症状が治まる。いずれは耐性がついてしまう薬を服用するより、時間の経過で治まるのを待った方がいいということだろう。 「だから、ひとりに、しないでください……」 切実な声にギュウ、と胸を鷲掴みにされたような感覚に陥った。ヒートの間は、人肌が恋しくて、不安で寂しくて堪らなくなる、と何かで聞いたことがある。彼も求めているのだろう。自分を捨てた番のことを。 (……あんまりだろ、そんなの) やり場のない怒りに唇を噛み締める。一生癒されることのない渇きに、彼はこの先ずっと悩まされ続けることになるのだ。どこかの無責任なアルファのせいで。 「俺が代わりになれるかは分からないけど」 細い身体を両腕に抱く。震える指先が、おそるおそる直也のシャツを掴んだ。少しして、くたりと力の抜けた身体がもたれかかってくる。素肌から伝わる体温が熱い。 「先生、せんせい……」 艷っぽい声が直也を呼ぶ。誘われているのは理解していたが、応えることは絶対に出来なかった。応えてしまったら、直也は自分を許せなくなってしまう。 (耐えろ、耐えろ、俺!) 相手は生徒だ。間違っても手を出していい相手ではない。東が耳元で熱っぽく囁く。 「おねがい、だいて」 「駄目だ」 「なんで、誰にも言いませんから」 「そういう問題じゃない」 まさか、こうやって父親のことも誘っていたんじゃないだろうな。最低な想像が脳裏を掠めて、酷く自己嫌悪した。被害者に対する暴力にも等しい行為だ。 「せんせ、あつい」 「……東が熱いんだよ」 「ん、せんせぇ」 猫のように身体を擦りつけてくる東の誘惑に、ひたすら堪え忍ぶ。忍耐の甲斐あって、10分ほどで症状は治まった。 「……もう落ち着いた?」 「…………はい」 東が名残惜しそうに腕から離れる。熱い体温から解放されて、何だか涼しく感じた。 「今日は朝井(あさい)さん、迎えに来てくれるんだっけ」 「いえ。最近は、自分で帰るようにしているので」 「そっ……か。一人で帰れるか?」 「はい」 そうは言ったが心配で、帰ったら施設から連絡を入れてもらうように言った。東は普段通りの無表情に戻っていて、さっきまでの不安そうな顔が嘘みたいだった。 「じゃあな。また明日」 「はい。さようなら」 小さな背中を校門の前から見送る。今日起きたことは、綺麗サッパリ忘れよう。東のためにも、自分のためにも。そう決めて、仕事に戻った。

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