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第9話
隣の部屋の東 を訪ねる勇気もなく、一言も会話を交わさないまま、とうとう月曜日になってしまった。重たい足を引きずりながら、学校へ向かう。
(東に会ったら、なんて言えばいいんだ……)
溜息をつきながら職員室に入ると、ちょうど御園 が荷物をデスクの上に置いている所だった。
「おはよう、甲斐 先生」
「おはようございます……」
ワントーン暗い声に、御園が目を瞬かせる。
「どうした、元気ないな」
「いえ……ちょっと寝不足で」
適当に言い訳をでっち上げる。全くの嘘ではないし、と言い聞かせた所で、罪悪感が薄まることはなかった。
「あんたがしおらしいと気味が悪いな。ちゃんと睡眠は取れよ」
「はい、気をつけます……」
なかなか失礼なことを言われた気もするが、反論する気力は無い。しょぼくれたままの直也 に、御園がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、東があんたの部屋の隣に引っ越したと聞いたが」
「んぐっ」
勢いよく地雷を踏み抜かれて息が詰まった。
「一人暮らしは大変なことも多いだろうから、何かあったら助けてやってくれ」
「も、勿論ですよ……」
どの口が、と脳内で突っ込みを入れる。助けてやるどころか、現在進行形でこちらが助けてほしい状況だ。様子を訝しまれる前に、そそくさと退室して校門前に立った。
「おはよー、カイちゃん」
「おはよう」
今日も生徒達が可愛い。束の間の癒しを楽しみつつ、そろそろだよな、と腕時計に目をやる。そして、時間通りに彼はやってきた。
(……いつも通りに)
「おはよう、東」
「……おはようございます」
声が裏返ったりすることはなかった。マスク姿の彼は、やはり起伏に乏しい声で挨拶を返した。そのまま隣を歩く。流石に、以前のような雑談をする気にはなれなかった。
クラスの前まで来て、「じゃあ」と立ち去ろうとすると、後ろから服の裾を引っ張られる。振り返ると、髪の間から覗く双眸が悲しげに細められていた。
「…………すみませんでした」
「え?」
「もう、しませんから」
意味を問い質す前に、彼は踵を返して教室の中へと入っていった。席に着いて動かなくなった彼の姿を見てから、ゆっくりと職員室へ戻る。
(もうしないって、あれのことだよな)
もう夜中に、彼の訪問に怯えなくていいということだ。それ自体は喜ばしいのだが、どうしてこうも唐突に気が変わったのだろうか。
(それに、あんなに悲しい顔されるとな……)
あんな表情は初めて見た。ヒートに苦しんでいる時でも、あんなに苦痛を帯びた表情を見せることはなかったはずだ。あんな顔をさせたまま、何もしないでいるのは気分が良くない。
(……ちゃんと話をしないと)
彼の本当の気持ちを聞き出さなければならない。そう決めると、少しだけ前向きになれた。
扉の前で深呼吸をする。意を決してチャイムを鳴らすと、中から足音が聞こえた。
「はい、……」
扉を開けた東は、直也の顔を見て驚いたように固まった。
「話があるんだけど、入れてもらえるかな」
「……どうぞ」
入った部屋の中は、荷物が少なくてがらんとしていた。新しく買ったと思しき本棚と数冊の本だけが、彼の生活を感じさせる要素だった。
テーブルの前に腰を下ろし、彼と向かい合う。東は床の上に正座して、じっとテーブルの面を見つめていた。
「……いきなりで悪いけど、本題に入るな」
平静を保つことを念頭に置きながら、話を切り出した。
「この前、俺にああいうことをしたのは、どうして?」
「…………」
きゅ、と唇を引き結んで黙り込む。尋ねてはみたが、直也はその答えを既に一度聞いていた。
「俺のことが好きになったから、って言ってたよな。それって、どういうことだ?」
東がちらりとこちらを覗き見て、再び視線を下に戻す。しばらくの沈黙の後、東は重たい口を開いた。
「……本当は、あんなことするつもりじゃ、なかったんです」
言い出しこそ言い訳のような言い方だったが、話を聞く限りでは、本人も何が何だか分かっていないようだった。
「あの夜はたまたま不定期なヒートが来て、我慢しなくちゃいけないってことは分かってたんです。でも、隣に先生がいるって、そう思ったら体が勝手に動いていて、気づいたら……あんな、ことに」
やってしまったことは仕方がないから、どうにか直也との関係を保てないかと試みた結果があれだったらしい。
「夢にするつもりだったんです。でも、先生の寝顔を見てたら、夢にするのが、惜しくなっちゃって……」
「それであんな、脅しみたいなことを?」
「ごめんなさい、本当に……二度としません」
だから嫌わないで。そう小さく呟いた彼は、ギュッと肩を縮こまらせてしまった。事情は分かった。だがそれ以前に、東に関して知らないことが多過ぎた。
「俺のことが好きっていうのは、いつから?」
「……学校でヒートが来て、抱きしめてもらった時です」
(やっぱりか……)
あれは軽率な行動だった。今後悔しても遅いが、教師としてすべき行為ではなかった。
「ヒートの時に我慢が効かなくなることは、今までにもあった?」
「ない……と思います。今までのヒートは、始まったらすぐ、相手がいたので」
「……嫌だと思うけど、出来れば答えてほしい。それは、誰?」
「………………父です」
ビンゴだ。御園の予想は当たってしまった。苦虫を噛み潰したような心地になるが、話はこれで終わりではないのだ。
「警察に相談はした?」
「……大事にしたくなくて」
「でも、それは虐待、れっきとした犯罪だ。東が言えば、警察は動いてくれるよ」
「知られたくないんです」
そこで初めて東が声色を変えた。語気が強まって、固い声で直也に言い募る。
「あの人ともう、どんな形であれ関わり合いたくないんです。縁が切れたからもうそれでいいんです。警察には言いません」
緊張した様子に「警察には言うな」と脅かされている線も考えたが、それならば直也にきちんと言うだろう。これは本心のようだ。
「……分かった。嫌なこと思い出させてごめんな」
直也がそう言うと、ホッとしたように体から力を抜いた。何となくだが、大体分かった。
東は恐らく、縋る先を探しているのだ。ヒートの埋まらない隙間を、一時的に埋めてくれる人を求めている。それと直也の行動が上手く噛み合ってしまって、恋慕と勘違いしてしまったのだろう。どうあれ、今彼が求めているのは、直也に他ならない訳で。
「…………東は、俺にどうしてほしいんだ」
「どう……って」
ここまで踏み込んでしまった以上、何もせずに放置する訳にはいかない。生徒を少しでも助けたいと思う気持ちに変わりはなかったし、直也に出来ることなら何でもするつもりだった。
「……抱いてくれるんですか?」
「………………」
まあ、そうなるよな。こうなると覚悟はしていた。だから、せめてもの足掻きとして、直也は条件を提示することにした。
「……いいよ。ただし、誰にも口外しないこと。それと、ヒートの時だけにすること」
もし断ったら、関係を暴露されるかもしれない。あるいは、彼が別の人間の所に行って、父親の時と同じようになってしまうかもしれない。そうなるくらいなら、直也が節度を持って――という言葉が正しいかどうかはともかくとして――面倒を見てやればいいのだ。それが教師として正しくないことだと分かっていながら、しかし他に方法も浮かばなかった。
「それでいいなら、喜んで」
東は一も二もなく頷いた。してしまった約束に一抹の不安を覚えながら、かくして東との歪な関係が始まった。
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