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第13話

今年の夏の到来は早かった。校庭の木々には何十という蝉が止まり、わんわんとけたたましい声を上げて鳴いている。額から流れ落ちる汗を袖口で拭って、校門の方を眺めた。今日も今日とて、可愛い生徒達が登校してくるのを、一人で立って待っていた。 「おはよ〜カイちゃん……」 「おはよう。暑かっただろ、中入ったら水分摂るんだぞ」 「はあ〜い」 女子生徒達がパタパタと手で顔を扇ぎながら通り過ぎていく。アップにした髪と健康的な白い項のコントラストが眩しい。一応まだ合服期間ではあったが、今日はほとんど半袖の生徒しか見かけなかった。 「お」 また一人、校門をくぐってきた生徒が見えた。見覚えのある黒い頭に、小さく手を上げる。 「おはよう、(あずま)」 「おはようございます、先生」 この暑いのに、東はまだマスクにカーディガンという重装備だった。見ているだけでこちらが汗をかきそうだ。東は青白い頬を少し上気させて、ぺこりと頭を下げた。 「体調は大丈夫そうか?」 「はい……お陰様で」 「そうか……うん、なら良かった」 昨夜までの名残か、質問に答える声が少し掠れていた。直也(なおや)が家を出た時はまだ怠そうにしていたが、歩いて来られたのなら大丈夫だろう。 「教室着いたら水分補給しっかりな」 「はい。先生も」 「おう、勿論」 教室に着いて、東と別れて職員室へ向かう。ふと振り返ってみると、教室の入口から東がこちらを見送っているのが見えた。小さく手を振ると、彼も控えめに振り返してくる。 (…………可愛いなぁ) 恋人だという贔屓目を抜きにしても、東のこういう健気な所は可愛いし好ましかった。再び正面を向いて廊下を歩く。 職員室に入ると、冷房の風が肌に浮いた汗に直撃して涼しかった。 「おはよう、甲斐先生」 「あ、御園(みその)先生。おはようございます……?」 挨拶を交わして通り過ぎようとした直也の肩を、がっしりと掴む。御園は常の無表情を少し歪めて、不機嫌そうにしていた。 「突然だが、今日の放課後時間はあるか」 「え? えーと、何か相談ですか?」 「いや、ただの愚痴だ。俺が奢るから」 「え、あ、飲みに行く感じですか……?」 「それ以外に何がある」 急過ぎる展開についていけず、御園の顔を見返す。御園は少し冷静になったのか「嫌なら断ってくれて構わない」と手を退けて顔を逸らした。何やら珍しい彼の様子に、考えるまでもなく頷いていた。 「いいですよ、先生の奢りなら」 「……調子の良いやつだな」 「ははは……」 彼はじゃあ放課後に、と何事も無かったかのように職員室を出ていく。「ただの愚痴」と言っていたが、彼でも愚痴を言いたくなる時があるのだなと不思議な気持ちになった。 御園の行きつけらしい居酒屋に入り、互いのビールが運ばれてきた所で本題に入る。 「で、今朝はどうしたんですか」 御園はビールを一息で半分ほど飲み干すと、苦々しく顔を歪めて頬杖をついた。 「……パートナーがいると前に話しただろう」 年下の元教え子のことだろう。頷くと、御園は小さく溜息をついた。 「…………喧嘩した」 「え? なんでですか?」 「番にならないかと言われたんだ。今朝」 「それは、おめでとうございます……」 「それ自体は別にいい。いずれそうするつもりだったしな」 あれ、これ愚痴だよな。何だか、遠回しに惚気を聞かされているだけのような気がするのだが。顔が引き攣る直也に構わず、御園はジョッキに目を落としつつ言葉を続ける。 「ただ、時期の話で意見が食い違った。相手は今すぐにでも、ということだったんだが、俺はそいつが20歳になるまでは待ちたいと言った。そうしたら、喧嘩になった」 「それは、なんでまた……」 「奴いわく、何回待たせるつもりだ、と」 御園は確か、高校を卒業するまでパートナーのことを待たせていたはずだ。 「今、いくつなんでしたっけ。1……8?」 「19だ」 いや若。声には出さなかったが、表情には出ていそうだ。御園がこちらを見ていないのが幸いだった。 「じゃああと一年じゃないですか」 「その一年が長いんだと。どうせ番になるのに、待つ理由がどこにあるのかと言われた」 「それで、なんて言ったんですか?」 御園は一瞬口を噤んで、酒を煽った。コン、とさらに軽くなったジョッキがテーブルに置かれる。湿らせて軽くなったと思いきや、なおも重たそうな口を開いた。 「……何も言い返せなかったんだ」 え、とつい声が口から溢れ出た。目を伏せた御園が、訥々(とつとつ)と言い訳を述べる。 「言われたんだ。どうせまだ怖気づいているだけだろう、俺に人生を縛り付けられる覚悟が出来ていないだけだ、と。前半は全くもって……その通りだと思った。どうせ番になると言いながら、覚悟が出来ていなかった。それは事実だ、紛れもない」 ぐい、とジョッキを煽る御園のペースは早い。まだお通しにさえ手をつけていないのに、一杯空にしてしまった。それと同時に弱気な彼の様子が物珍しくて、ついつい止めるのを忘れてしまう。 「ただ……ただな、付き合った時から、あいつに人生を捧げる覚悟は、とっくにしてあったんだ。それごと否定されたような気がして……ついカッとなった。今思えばそれも言ってしまえば良かったんだが。まだまだ青いな、俺も」 自虐的に微笑む彼にそっと水を差し出す。気持ち程度に口をつけて、やっとお通しの枝豆に手を伸ばした。 「これ、俺が聞く必要ありました?」 「ある。一度他人に話して整理してからじゃないと、冷静に話せる自信が無かった」 「そうですか……」 「……助かった。これでまともに会話になりそうだ」 対恋人の御園は、もしかすると今話している彼より、もう少し子供っぽいのかもしれない。何はともあれ、仲が良さそうで羨ましい。 「いいですねぇ。結局ラブラブじゃないですか」 「まだ付き合って半年も経ってないんだぞ。当たり前だろ」 うわ、惚気。目を閉じて笑う横顔は楽しそうだ。ビールで嫉妬を流し込んで、枝豆をつまむ。 (……俺達も健全な始まり方だったら、ここで惚気けるくらい許されたのかな……) 今日の東、見送ってくれて可愛かったんですよ。言えていたらここまで苦悩していない。人に言えない付き合いだからこそ、直也は悩んでいるのだ。本当にこれで良かったのかと、毎日自問自答を繰り返している。 「……御園先生は、もし相手に運命の番がいたとしたら、どうしてました?」 「どうって、どういう前提だそれは」 「うーん……たとえば、相手には既に許嫁がいて、将来はその人と結婚するのが決まってて、けど相手からは御園先生がいいって言われたら」 「具体的かつ難しい質問だな。なんだ、悩みでもあるのか?」 「…………まあ、そんな所です」 「ふむ……」 御園は追加のビールを頼んでから、カラコロと空のジョッキを回して考え込んでいた。空を見つめる瞳がチラリと横目で直也を見る。 「まあ、相手と話し合えとしか言えんな」 「……親が決めた相手で、絶対に婚約破棄はさせてもらえないとしたら?」 「それなら、駆け落ちしてでも俺と生きていく覚悟があるかを問う」 「駆け落ち」 御園の口から出てきたとは思えない単語に目を瞬かせる。手元の枝豆が勢いよく飛んで、ギリギリ皿の中に落ちた。 「家柄も家族も経歴も友人も、何もかも捨てて俺と生きていく覚悟があるのか否か。そこまでする覚悟が恋愛において絶対に必要だとは言わないが、その状況下なら俺は必要だと思う」 何もかも捨てて。今の状況で、それをする必要があるのは直也の方だ。教師としての人生と、家族や友人からの信頼を捨てて、彼を己一人で守り抜く覚悟。 「そんなの無いですよ……」 「だろうな。俺だって教師を辞めてまであいつと一緒になりたいとは思わん」 「いいんですか、そんなこと言って……」 「ふ。教師じゃない俺のことを、あいつが見つけられるとは思えないからな」 (そうかなぁ……) いつぞやの首につけられた痕を思い出す。あれだけ執着している相手なら、たとえ御園が教師でなくても、出会って好きになっていたのではないだろうか。あくまでもしもの話だが。 「ていうか御園先生、ペース早くないですか」 「そうだな。酔いたい気分なんだ」 「誰が介抱すると思ってるんですか……?」 「はは、頼んだ」 開き直ってカラッとした表情で笑いながら、二杯目に口をつける。キメの細かい泡が彼の喉に流し込まれていくのを見ながら、直也は沈んでしまった気分をそのままに肘をついた。

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