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第12話
父は言っていた。「努力は裏切らない」と。「続けることだけでも、立派なことだ」と。
だが、努力して続けたところで、生まれついての体質は――……まだ裏切るようだ。
息が切れる。遠くから、夏樹が「ペース落ちてんぞ!」と言っている。わかってる。そんなこと、自分が一番わかっている。言われなくてもわかる。
集中力が切れ、重心がズレた。フォームが崩れ、水の抵抗を強く受ける。思うように進まない。掻く手の力を加えれば加えるだけ、体力を消耗していく。呼吸のタイミングが合わない。
――息が、できない。
「けほっ、げほっ」
「小焼ー! 大丈夫か!?」
「……ぁ……はぁ……だ……い、じょ……ぶ…………」
苦しい。「大丈夫」と言うのは語弊があるかもしれない。「大丈夫ではない」が正しいと思う。だが、夏樹を心配させたくない。
プールの底に足をつけるのは久しぶりだ。水泳を始めた頃以来かもしれない。
呼吸を整えつつ、歩いて端まで行き、プールから上がった。
「本当に大丈夫か? 肺が痛むとか、呼吸が苦しいとかねぇか?」
「痛み……は、無い……です……」
「わかった。もう話さなくて良い」
夏樹には、これだけで十分のようだ。
ベンチに座ったところで、手を膝の上に置くように指示されたので、黙って従う。
「鼻から息吸ってー、口すぼめてゆっくり吐く―。ゆっくりーゆっくりなー」
息苦しさが徐々に消えていく。
こういう時に、本当に医者なんだなと実感する。
「どうだ? ましになったか?」
「はい。ありがとうございます」
「ん。もう今日はクールダウンな」
「まだ終わっていないメニューが……」
「駄目だ。今の状態だとオーバーワークになっちまう。おまえが持久力つけたいって気持ちはわかっけど、これだと逆効果だ。無理すれば良いってもんじゃねぇよ」
「わかりました……」
「今日は素直に聞くんだな?」
「は?」
素直に? 聞く? 何の話をしているんだ?
じーっと見ていると、夏樹はニカッと笑った。何で笑ったんだ? 全く理解できない。
落ち着いたからクールダウンに行こう。立ち上がり、プールに向かって歩く。
スタート台に上がり、姿勢を正す。クールダウンだから、こんなことは特にする必要も無いと言われれば、それだけだ。だが、しておけば、それだけ練習できたことになる。努力したことになる。
大きく息を吐き出し、細く吸いこんだ後、低い姿勢のまま飛び込む。今までで一番遠く着水できた気がする。この感覚を忘れないようにしたい。力を抜き、ドルフィンキックのまま進む。指先で水を切り、隙間を縫うように滑りこんでいく。浮上した際にフラッターキック――バタ足に切り替える。これだけで良い。今はスピードを求められていない。クールダウンだから、もうゆっくり落としてやれば良い。
プールサイドに上がれば、夏樹の隣に人がいた。見覚えのある顔だ。
「夕顔くんおはよー!」
「望月がどうしてここに?」
「ボクねぇ、ここのバイト受かったんだぁ」
ああ、そういえば、ジュニアクラスのコーチの募集をかけていると先生に聞いた覚えがある……。現状、私が週4で入っているが……これで少し減らせるか。スイーツの食べ歩きに行きたい。
望月は人当たりが良いから、子供に好かれると思う。夏樹が子供に好かれやすいから、きっと、望月も子供に好かれるはずだ。
「というわけで、これからバイト仲間としてもよろしくねぇ!」
「よろしくお願いします」
手を掴まれて、ぶんぶん振られる。なんだろうかこの握手。斬新だな。
望月は今日がバイト初日らしく、これから契約書の確認があるから早めに来たらしい。そこで、先生に私のことを聞いて短水路のプールを覗きに来たようだ。まだ書類の確認が残っているらしく、それだけ言って戻っていった。
「良かったな、友達ができて」
「友達、なんですか?」
「友達だろ。仲良くしろよ。おれと違って望月は殴ったら死にそうだから、手を出すなよ」
「足なら良いですか?」
「足ならもっと死ぬだろ。手の6倍は力があるって誰かが言ってたくらいだ」
「わかってますよ。私が叩いても耐えられるのは、夏樹ぐらいです」
「あはは、痛いのはご遠慮願いてぇよ」
夏樹は相変わらずの笑顔だ。尻尾を振っているように見える。尻尾なんて、彼には無いはずなのに、どうしてか幻視する。頭を撫でてやれば、もっと勢いよく振っているように見える。
「それはそうと、気になってたから言って良いか? キスマークについて誰かになんか言われなかったか?」
「自分がつけたんでしょうが」
「い、いやぁ、そうなんだけどさぁ、どう思われてんのかなって思って……」
「誰も何も言いませんよ。……言っても仕方ないでしょうし。基本的にシモの話をしたがらないでしょう」
「それもそっか」
「それより――」
乳首がじんじんする。
着替える時に、擦れて変な声が出る程度には、つっぱっているように感じる。水に入っている間も、熱を持っていたような気がする。だから、体を伸ばして浮いていた。
「それより、何だ?」
「……」
何と説明すれば良いんだろうか。乳首がじんじんすると言って良いのか? 伝わるような伝わらないような、なんとも形容しがたい。触診させたほうが良いのか?
「おーい、黙らねぇでくれよ」
「来てください」
「おう!」
ここだと人目につく。見えないほうが良いはずだ。
更衣室は……そろそろジュニアクラスの子達でいっぱいになるか。シニアクラスの生徒もいるはずだ。シャワールームもシニアクラスの生徒が入っているはずだから……用具室に行くか。あそこなら、スクールの関係者以外入らないはずだ。
用具室に入り、内側からロックしておいた。
「え、えーっと? 小焼。何でここに連れてきたんだ?」
「……触 れ」
「ぃっ!? さ、触んの!? わかった!」
夏樹は驚いたような表情をしてから、私の胸に手を伸ばす。痺れが体中に広がっていく。触られている場所から、熱くなる。
「ふっ、……ぁ、ん! ん、ッ……は……、……ぅン」
「小焼。何これ? ご褒美か?」
「ち、がっ……乳首が、じんじんする……」
「あー……、コリコリになってんな」
指先で抓まれ、腰が浮く。変な感じがする。
夏樹は真剣な表情をしているから、ふざけて触っているわけではなさそうだ。なのに、下も触ってほしくなる。こんなところで、はしたない。そう思うのに、夏樹に触ってもらいたい。もっと。もっと欲しい。腹が減った。昼メシは、何にしようか。腹が減った。欲しい。さみしい……。
「なつき、こっちも」
「こっちは、バレたら、おまえがバイトクビになりそうだから、駄目だ! ……わりぃ、おれがおっぱい弄りすぎたからだな……。とりあえず、絆創膏貼っとく!」
夏樹は私から離れてカバンから取り出した絆創膏を乳首に貼ってくれた。なんだこれ、幼児向けのキャラクターが描かれた絆創膏だ。
急に頭が冷えた。夏樹のセンスの無さというか、優しさで落ち着いた。
「何でこれ持ってるんですか?」
「幼稚園で体験学習した時に買ったっきりだったんだ。やっと使えて良かった。乳首が可愛くなったな!」
「ばかか」
「罵らねぇでくれ。興奮しちまう。……んー、でも、そんなに敏感になるとは思わなかった。わりぃな、ほんと」
「本当に悪いと思ってますか?」
「思ってる! 思ってるよ! 神にも誓えるぞ!」
夏樹がたまに言う「神にも誓える」の神がどの神なのかは未だに謎のままだ。こいつの家は何教を信仰していたか……と考えても仏壇があったことを思い出すくらいで、詳しくはわからない。仏壇の扱いも大雑把だったことはわかる。毎朝毎夕炊き立てのごはんをお供えしているし、線香もあげているようだが、他は雑だ。月命日というものがあるはずだが、まったくそれらしいことをしているのを見たことがない。法事で親戚が集まることはあっても、それも酒盛りになるとか言っていたような気もする。興味が無くて覚えていない。
身震いをする。少し肌寒くなってきた。さっさと服を着て昼メシを食べに行こう。
「置いてかねぇでくれよ!」
夏樹が後ろでキャンキャン鳴いている。
放っててもついてくるから気にせずにシャワールームでシャワーを浴びてから更衣室へ向かった。
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