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第20話

「あ、あいつだ。ゲイだって公表してるやつ」 「ひえぇ、あんまり近寄りたくねぇな」 「男同士でセックスしてんだろ?」  イヤホンをつけてジョギングしているが、環境音が聞こえる程度の音量にしているから、何を言っているか残念ながら聞こえている。うるさい。どうしてこんなに変な目で見られるかわからない。誰が誰を好きでいようと勝手だと思う。そもそも、どうして性行為のことしか想像しないんだ。気持ち悪い。吐き気がするくらいだ。  正確にはゲイではなくてバイだと思うんだが、言い返すのも関わるのも面倒臭い。互いに無関心でいたほうが良いと思うのに、どうして関わろうとしてくるんだか。無関心が良い。そのほうが、傷つかないし、傷つけることもない。  音量を上げる。何も聞きたくない。誰とも関わりたくない。ひとりでいるほうが良い。どうせ離れていくなら、近付かないでほしい。  夏樹も……いつか、離れていくか……。それは……さみしい。 「おっ! 夕顔―!」 「誰ですっけ?」 「阿武だよ! 阿武雪次! 忘れんじゃねぇんだぜ!」  ああ、夏樹の知り合いだな。水泳の強豪校だったはずだ。こいつ自体は全く速くないってことは覚えている。それなのに、口だけは達者で、私に勝つだの言っていたような記憶がある。  こいつに関わりたくない。戻ろう。夏樹も戻っているはずだ。踵を返したところで腕を掴まれた。 「何か用ですか?」 「なあ、お前と伊織って本当に付き合ってんの?」 「それが何か?」 「い、いや、聞いてみただけ! じゃあさ、キスもしてんの?」 「聞いてどうするんですか? 貴方には関係無いでしょう」  腕を振りほどいて駆け出す。いったい何だってんだ。面倒臭い。  観客席に戻ったが、夏樹はいなかった。トイレにでも行ったのか。 「小焼くんお疲れ!」 「ありがとうございます」 「小焼くんのお陰で、ベストタイムが出せたんだ。ありがとう!」 「どういたしまして」  奏は嬉しそうに笑っていた。ハムスターのような笑顔だ。なんとなく頭を撫でてみた。更に嬉しそうにしていた。そこに夏樹が戻ってきた。 「あー! 望月ずるいぞー! おれも小焼に撫でてもらいたい!」 「撫でてもらいたいって何なんですか」 「そのままの意味!」  夏樹は奏を押しのけて抱きついて来る。人目があるからベタベタしないでほしい。ただでさえ、さっき色々言われていたくらいだ。  襟首を掴んで離す。夏樹は眉を八の字に下げていた。大きな目が少し濡れている。 「何でおれは撫でてくれねぇんだよー!」 「『待て』」 「うぅ……、わかったよ」  肩を落としつつ、夏樹は私の隣のベンチに座った。周りが騒がしいのは、声援も含まれているから仕方ないが、明らかにこちらを見て声をあげている女がいたので困る。ふゆと同じような生き物なんだと思う。  しばらく観客席で過ごしてから、再びプールへと下りた。  これを泳げば、もう帰っても許されるはずだ。腹がさみしい。夏樹に触れたい。夏樹に触れてもらいたい……。 「さっきは話損ねたけど、隣のレーンだし、よろしくなんだぜ!」 「何も話すことはないです」 「いーや、俺はあるんだぜ!」  さっきのうるさいやつが隣のレーンだったのか。決勝に出れるほどのタイムで泳げていたのか? 遅いというのは記憶違いだったか? 興味が無さ過ぎて覚えていない。 「で、で、キスもすんの?」 「だから、そういうの聞いてどうするんですか?」 「気になんだぜ! え。これって、もしかしてキスマーク?」 「っア!」 「わ、わわ、わりぃ!」  胸をつつかれ、ぶん殴りそうになったのを堪える。駄目だ。殴ったら、夏樹に迷惑をかける。ここで殴ったら、泳ぐことができなくなる。拳をゆっくり開く。駄目だ。変に、疼く。腹の虫が鳴いている。さみしい。  係員に声をかけられたので移動する。こんな状態で、泳がないといけないのか。 「小焼ー、ファイトー!」 「小焼ちゃんがんばってー!」  いつの間にか、ふゆが夏樹の隣にいた。見に来てたのか。今朝は、無料配布の原稿がうんぬんかんぬん言っていたって夏樹が話していたから、てっきり来ていないと思っていたんだが……。 「小焼くんふぁいとふぁいとやのー!」 「ふぁいとふぁいとなの!」  鈴を転がしたかのような声がした方を向く。けいがいるのは、わかる。だが、どうして彼女の隣に巴乃メイがいるかわからない。推しに応援された……。  気をとりなおして、ブザーの合図でスタート台に立つ。夏樹の声が聞こえる。早く『ご褒美』をあげたい。……ご褒美を貰うのは、私のほうか? 「Take your marks」  一呼吸おいて、ブザーと共に飛び出した。反応はまず悪くないと思う。着水もできるだけ遠くにできたはずだ。腕を伸ばし、遠くの水を掴んで進んでいく。推進力のほとんどは腕で水を掻いた時に生じる。切り裂いた水の隙間に体を滑り込ませて進んでいく。  150mを過ぎた折り返しで腕の重みが増してくる。余分な力が始めの方にかかっていたのか? 軸がブレていたか? 息が苦しくなってくる。リズムが崩れている。修正をかけないと――……。 「夕顔お疲れー! 惜しかったなー!」 「惜しかったって、何がですか……。散々ですよ」 「まあまあ! 決勝に出れるだけで凄いってぇ!」  観客席に戻って、チームメイトに声をかけられることが逆に腹立たしくなってくる。慰めているつもりなのか、励ましているつもりなのか、何なのかわからない。  いつもなら一番に駆け寄ってくる夏樹の姿も無い。観客席で見ていたはずなのに、何処に行ったんだ、あいつは。ふゆもいないし、けいやメイの姿も見えない。全て私の幻覚……ではないな。 「奏。夏樹は?」 「伊織くんなら、タバコ吸いに行ってくるって言ってたよ。妹ちゃんはイベント準備があるってぇ」 「そうですか」  タバコを吸いに行ってるなら、クールダウンに走ってくるか。  会場を出たところのコンビニに夏樹の姿が見えた。あいつ、コンビニでタバコを吸ってるのか? 買いに行ったのか? 「おっ。小焼、お疲れ!」 「どうも……」 「急にスピード落ちたけど、どうした? リズムが崩れてたな」 「わかりません。無理に泳いでいたんでしょうかね」 「んー、そっか。故障してんじゃないなら良いよ。痛んでねぇな?」 「はい。大丈夫です」 「あー……、横のやつに何か言われたとかじゃねぇよな? ほら、阿武だったろ?」 「ああ。あいつなら、私にお前とキスしてるかとかそういうことを聞いてきましたね。胸を触ってきたので、殴ってやりたかったです」 「小焼のおっぱいは、おれのだぞ!」 「私の胸は私のものですが?」 「そりゃそうだな。あはは」  触ろうとしてきたので、手を叩いてやった。阿武に触れられてから、体が妙に熱い。熱を出したい。サポーターをしているから目立ちづらかったが、少し勃ちあがりつつあったから、観客にバレていないかも心配だった。……敗因は、そこだろう。  夏樹はくりくりの目を向けている。少し涙に濡れたままの瞳は、何かを期待しているように見える。『ご褒美』待ちをしているんだと思う。頭を撫でてやれば、嬉しそうに擦りついてきた。人懐こい犬にそっくりだ。 「えへへ。頭撫でてくれて嬉しい!」 「そりゃ良かったですね」  ひとしきり撫でまわして、観客席に戻る。その後は、顧問の先生の話を聞いて解散という運びになった。各々夕飯を食べて帰るだとか恋人と待ち合わせしてるだとかで分かれていく。  私は夏樹の車の助手席に座る。いつの間にか助手席には円座クッションが設置されるようになっていた。知らないキャラクターのアクリルフィギュアがダッシュボードに設置されていた。なんだこれ。 「夏樹。何ですかこれ?」 「ふゆのオリジナルキャラクターだってよ。くれたから飾った」 「はあ?」 「知ってる人は知っている。知らない人は覚えてね! という感じだな。名前なんだったっけ? (かん)くんだったかな。焼き芋が大好きな男らしいぞ。おならがよく出そうだな」 「何で芋を食べたら屁が出るんですか?」 「サツマイモは細胞壁が破れにくくて、食物繊維も多いから、大腸に送り込まれる消化残渣が多いんだ。それが、腸内細菌の栄養源となって多量の腸内ガスが発生すんだよ」 「詳しいですね」 「おれを何だと思ってんだ? 栄養士免許も持っている超スーパードラマティッククールなスポーツドクターだぞ!」 「その超なんちゃらを言わなかったら頭良いなぁで終わったんですよ。ばか丸出しですね」 「厳しいなぁ……。で、これからどうする? どっか店寄って帰っか?」 「『ゴーホーム』!」 「ん。直帰すんだな。わかった」 「夕飯食べていくでしょう?」 「良いのか!?」 「悪いとは言いませんよ」  そう返事をして、目を閉じた。少し疲れた。家に着くまで休ませてもらおう。

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