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第28話

 着水してからストリームラインを作り、水を切り裂くように進む。15mラインで浮上し、一掻き、一蹴りを丁寧に行う。水に触れる感覚が心地良かった。溶けきるような一体感を得ながら、掻き分けた隙間に体を滑り込ませ、前に進む。  誰かが追ってくる。水の揺れでわかる。これは、奏だと思う。何度も共に泳いでいたら波紋だけでわかる。波紋が水を求めた魚のように暴れる。もう少し丁寧に泳げないのか。  クールダウンだから私はゆっくり泳いでいるので、奏はいとも簡単に抜いていく。普段なら絶対に有り得ない状況だ。水中で笑っていたので、少し腹が立つ。抜き返してやるか。  先にターンしてきたのを横目で見つつ、私もターンする。壁から力をもらい、水の動きを読んで、一掻き、一蹴り、掴まえる。腕はまっすぐ前へ、できるだけ遠くの水を掴む。  リカバリーと同時に息を吸う。ゆっくり吐きながら前進する。力の抜けた良い状態だ。これならベストを更新できたかもしれない。……クールダウンをしているはずだったんだが。  奏を抜き去り、プールサイドへ上がる。やはり少し呼吸が乱れる。……もう1セット練習を増やすか? いや、夏樹がゼミ室で待っているはずだから、もうあがろう。 「もーっ! 小焼くん何でクールダウンなのにそんなに速いのぉ!?」 「むしゃくしゃしてやりました。お疲れ様です」 「え。もうあがっちゃうの?」 「夏樹の誕生日なので」 「そっか。お幸せにぃ」  クールダウンの体操をした後、シャワーを浴びてから更衣室へ向かう。  空調がよく効いていてやや肌寒い。こちとら裸に近い状態なのだから、こんなに空調を効かせる必要はないだろう。設定温度を上げておいた。どうして16℃になっているんだ。いくらなんでも寒い。風邪をひく前に着替えを終わらせて帰れというメッセージでもこめられているのだろうか。そんなことはないか。  ジャージに着替え、スポーツ医学ゼミへ歩みを進める。照りつけるような日差しだ。照り焼きチキンを食べたいな。今晩は照り焼きチキンにするか……。夏樹は家族と過ごすだろうし一人分で良いな。  ドアを三回ノックしてから開く。白衣を着た夏樹がコーヒーをカップに入れていた。 「ナイスタイミング! 良い感じにコーヒーをいれられたんだ!」 「インスタントでしょうが」 「そうだけどさ。おれが作ると何でかダマになるんだよなぁ。今日はバッチリ溶けてんぞ!」 「ある意味才能だと思いますよ」  何をしたらインスタントコーヒーがダマになるのかさっぱりわからない。  ドリップタイプのものにすればダマにならないと思うんだが、夏樹のことだからお湯を入れ過ぎてフィルターではないところから抽出しそうだ。  近くの椅子を引き寄せて座る。  何でこのクソ暑い時にホットのコーヒーを飲まないといけないのかいまいち理解できないが、夏樹がせっかくフラスコで作ったので、飲んでおこう。苦い。 「これ苦すぎませんか」 「小焼ってブラック飲めなかったっけ?」 「いえ。飲めますけど……。異常に苦いですよ」 「おれ、これくらいの苦さが好きなんだよな。無理して飲まねぇで良いから!」 「カフェイン中毒になりそうです」 「5杯ぐらい飲んだらやばいかもな!」  そんなやばいものを他人に飲ませる医者ってどうなんだ。医者の不養生とはよく言うが、これがそうなんじゃないか。 「カフェインは基礎代謝を上げるし、興奮作用も鎮静作用もあるから、合法的にキメられるぜ!」 「仮にも医者が言うセリフではないと思いますよ」 「仮じゃなくて、本当に医者だから! 医師免許持ってっし!」 「知ってますよ。超なんたらかんたらスポーツドクターでしょ」 「おう。小焼専属の超ウルトラハイパースペシャルエディションスポーツドクターだ!」 「また変わってる……」 「気分で変わる!」  あきれて何も言えなくなってきた。  人懐こい笑みを浮かべているので頭を撫でてやったら、更に眩しいくらいの笑顔を見せてくれた。無いはずの尻尾を振っている。頬を撫でて、指先で唇を押す。ぷにぷにしている。口の中にそのまま指を突っ込んで上顎を擦ってやる。涙目で震えている。わかりやすい。 「口の中気持ち良いんですか?」 「ん。きもちい……、は、あ……はー……」 「そんなに良いんですか?」 「くるしっ、けど、きもちい」  まあ、キスした時に舐められたら気持ち良いところだしな……。こいつには絶対に言わないが。  夏樹の腰がガクガク震えている。欲しそうだ。誕生日だから、何か特別な『ご褒美』をあげたほうが良いか。  舌の表面を撫でるようにしながら、喉奥に指先を進める。そのまま円を描けば、元から大きな目が更に大きく開き、ヒュッ、と音がしたところで指を引き抜く。 「うぇっ、え、げほっ、げほっ!」 「……また激辛の何か食べたんですか?」 「激辛キムチ炒飯とラーメンのセット食べた、げほっ。あー、鼻に入ったぁ。痛い」  夏樹は鼻をかんでいる。とろとろに潤んだ瞳で床の吐瀉物の掃除を始めた。 「私が舐めて掃除しろって言ったらどうします?」 「え。それは……」 「させないですよ。さっさと掃除してください」 「あーい。……おまえが吐かせてんだけどな!」  掃除後のゴミ袋を外に運びながら言われた。逃げながら言われてもな……。  夏樹は流し台でうがいをしてから戻ってきた。  ふざけるのはこのくらいにしておいて、プレゼントを渡すか。バッグからプレゼントボックスを取り出して、投げつける。 「『キャッチ』」 「うおっ!? あー、あぶねぇ、剛速球だった」 「野球部より速くないです」 「何で野球部と比較してんだよ! これ、開けて良いか?」 「どうぞ」  夏樹は嬉しそうに包装紙を破いていく。もう少し丁寧に破いてほしいところだが、ここで何か言っていてはずっと開けられないような気がするので見守ろう。 「おっ。ポーチだ!」 「シガレットケースです」 「ありがとな! ライターも入れられるじゃん。かっこいいー!」  喜んでいるようだから安心した。趣味がいまいちわからないところがあるから、無難に本革性の無地のものにしておいて正解だったな。……当初よりも予算オーバーしたが、喜んでくれたからどうでも良い。  母に言えばIMGのケースを貰えただろうが、彼には自分で選んだものを贈りたかった。予想よりも喜んでくれたので、素直に嬉しい。胸のあたりがあったかい。  夏樹は早速タバコを入れ替えていた。……あんなライター持っていたか? 「夏樹。そんなライター持ってました?」 「あ、これな、はるに貰ったんだ。かっこいいよな!」 「はるって誰ですか?」 「ほら、この前のイベントでダウナーちゃんしてた巨乳ギャルだよ!」 「ああ……」  そういえば、彼女もタバコを吸っていたな。だからライターを贈ったのか。夏樹の誕生日はふゆに聞けば教えてもらえるだろうし、バエスタでも公開されているはずだ。  ……なんだか、もやっとする。 「ほら、これ、五芒星が刻まれてんだ。火の魔法使えそうだろ! ……小焼? 爪噛むなって!」  手を掴まれた。  無意識に爪を噛んでしまっていたようだ。左手の人差し指の爪が欠けていた。痛みがじわじわ広がっていく。血が滲んでくる。 「ヤキモチ妬いてくれてんのか?」 「餅は焼いてませんが?」 「そういう意味じゃねぇよ! えへへ、嬉しい。心配しなくても、おれは小焼のことが一番好きだ!」 「大声で言わないでください。やかましい」  にこにこしながら抱きついてきたので受け止める。  夏樹の手が私の胸に触れる。電流が走ったかのような痺れが通っていく。 「っふ、ん……! んっ」 「すっかり敏感になっちまってんな」 「ばっ、か! ァッ!」 「わりぃわりぃ!」  手が離れた。  中途半端に触られるのも困る。少し乱れた息を整えている間に、夏樹はコーヒーをおかわりしていた。 「明日の天気予報チェックしといた。晴れだってよ。花火大会楽しみだな!」 「そうですね」 「打ち上げ花火と滝っぽいやつあるらしいぞ!」 「滝っぽいやつってなんですか」 「なんだっけ? ド忘れした」  彼は頬を掻きつつニカッと笑う。  滝っぽい花火が何かは後で自治体のホームページでも見れば良いか。  甘露を煮詰めたような色の瞳が美味そうだ。舐めると怒られるうえに味は少し感じる程度だから、別段美味くないとわかっていても、美味そうだ。腹がさみしい。 「腹減ってんのか?」 「よくわかりましたね」 「小焼のことなら、なんとなくわかる。なんと言っても、専属の超スペシャルハッピーテクニシャンスポーツドクターだから!」 「数分前と変わってますよ」 「気分で変わるんだって! ……ほい、豆大福」  コンビニのレジ袋を受け取る。中には豆大福が入っていた。すぐに開封して口に含む。  厚化粧ではないかと思うほど打ち粉がついていたが、皮は薄くて歯切れが良く、しっとりやわらか。赤えんどう豆がちょうどよい塩加減だ。沢山入っていて、噛んでいて飽きが来ないし、食べ応えがある。粒あんだと思うが、小豆がよく潰れているので、皮のざらつき感が少ない。もしかしてこしあんなのか? いや、断面を覗けば小豆の形が見える。ふっくらした豆の香りが噛み締めるたびに鼻を抜けていく。思わず口端が上がる。 「あはは。そんなにがっつかなくても誰も盗らねぇよ」  夏樹は3杯目のコーヒーを飲んでいた。フラスコで作り過ぎだと思う。本来の用途ではないだろうに。  苦すぎるコーヒーが豆大福の甘味を打ち消す。妙な気分になってきた。

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