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第16話

 吉野の唇に律の唇が触れた。つまりキスしていることになる。唇の境目を律の舌先でなぞられる。「口を開けて」の合図だ。吉野は緊張で恐る恐る唇を開いた。途端に律の熱い舌先が口内に侵入してくる。まだ怖気づいてかたい吉野の舌に、律の舌が絡む。 「ん、ふ……」  呼吸が上手くできない。吉野が苦しいと、律の背中に手を回して叩いてみるけれど、律が吉野の言い分を聞く気はないらしい。ぎこちなく律の相手をしてた舌先は、律に導かれて律の口内に侵入させられた。けれどどうすればいいのだろう。普段律にされるように、恐る恐る歯肉を舐めて、そっと口蓋に舌を這わせた。一瞬唇が離れて、「吉野くん、上手」と褒められた。律はなんでも褒めてくれる。そうわかっていても、耳まで紅潮しそうだった。  律はそれ以上は求めてこず、すっと唇を離した。唇が寂しい。離れてわかるけれど、もうちょっとしていたかった。けれどそれを律には言えない。 「なんでこんなこと、したの?」  唇に着いた、どちらのものとも言えない唾液を指で拭いとる。 「別に? 吉野くん不足だったから」  なんだそれは。吉野はこんなのにも律のものなのに。昼間に告白されても揺るがなかった。でもその話をするのは、律には藪蛇のような気もする。  どうしたら、吉野は律のものだと伝えることができるのだろう。今まで律に甘えていて、受け身のままではままならないのかもしれない。手の力が抜けて、提げていたドーナツの箱の入ったビニール袋を取り落としそうになる。 「おっと」  と言って律がビニール袋を寸でのところで捕まえてくれる。 「さ、吉野くん、ドーナツ食べよ」  玄関先で律に手を引かれて、子供のように吉野は律についてリビングに向かう。ぺたぺたと廊下を歩く。この時間が永遠に続けばいいのに、と思う。けれど呆気なくリビングに着いてしまった。律は吉野を定位置に座らせて、キッチンに向かう。 「せんせぇ?」  定位置に縮こまって座る吉野は、小声で律を呼んでみる。捕食性の動物的だと言われる目は今は力なく、上目遣いで律の様子を窺う。律はちょっと困った顔をして、「待ってて」と返してきた。  律はキッチンでコーヒーメーカーを動かしている。挽いた豆から、コーヒーのいいにおいが立ち上って吉野の鼻孔を刺激する。ブラックコーヒーが供されるのかと思ったら、カフェオレが出てきた。「はい」とふたつのマグカップの片方を渡された。 「ありがとぉございます」  吉野はマグカップを受け取って、一口口をつけた。熱い。すぐにマグカップを口元から外す。 「温かいの、落ち着くよね」  そう言って律は微笑む。「ドーナツ、食べよう」  律がドーナツの入った箱を取り出す。スタンダードなものから、遊び心のあるものまで、複数種類入れてきた。律の手が箱の上を何度か行き来して、その内の一個を手にとった。口に運ぶと、齧る。  吉野はまだマグカップを両手で持って悩んでる。 「吉野くん?」  さすがに吉野の態度に疑問を持った律が、吉野の顔を覗き込んでくる。「どうしたの?」  それに吉野は赤面した。 「なんでもっ、なんでもないですっ」  慌ててドーナツを選ぶ振りをするけれど、手にしただけで食欲は湧かない。律は六個のドーナツからひとつを選んだ。そういうふうに吉野も選ばれたい。律の特別になりたい。 「ねぇ、せんせぇ、」  吉野はマグカップ片手に、その水面に浮いた自身の顔を見詰める。不安を抱えている目だ。 「セックス、しよ?」  強欲かもしれないけれど、目に見えるかたちで、律に吉野を選んで欲しかった。

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