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第30話
夕方、帰りの電車は予想よりも混んでいて、ぎゅうぎゅうと押されながら最寄り駅まで運ばれていった。押されるので必然的に吉野は律の首すじに顔をうずめるかたちになり、最寄り駅に着くまでの間、律のにおいに混じって、とくとくとく、という律の拍動を聴いていた。
恥ずかしい。これは恥ずかしい。律の鼓動が速いのか遅いのかわからないけれど、これだけ密着しているという事実が恥ずかしい。耳まで熱くなるのが吉野自身わかったけれど、これは律にばれているだろうか。
そのとき、す、と髪を撫でられた。律だ。いつの間にか吊革から手を離して、吉野の髪を指先で梳いている。そして吉野より六センチだけ高い位置から、「吉野くん、いい子」と吉野にだけ聞こえる声で囁かれた。これには吉野も赤面するしかなかった。
この人は電車の中で何をしているんだ。
理不尽な羞恥を感じたけれど、ソウイウコトを連想してしまう吉野自身の所為かもしれない、と思うと居た堪れなくなる。
電車から降りると、むっとした熱気に包まれた。昼の暑さが残っているのだ。その中で、「吉野くん、顔、真赤だよ。何想像したの?」とにやにやしながら律に訊かれたときに、ようやく遊ばれていたのだ、と気付いた。律はこうやってたまに吉野で遊ぶときがある。今にはじまったことではない。そうわかっていても、あのとき電車の中で密かにどきどきした事実は消えない。
「せんせぇのばかっ」
どぎまぎした吉野がばかだった。律の隣でむくれていると、律が苦笑しながら「ごめんね」とまた髪を撫でてくれる。そばに人が寄るだけでじんわりと汗ばむ気候のはずなのだけれど、なぜかそれが心地よくて、吉野はしばらく怒った振りを続けていた。律も多分、吉野の機嫌は直っていることに気付いているのだろうけれど、吉野に付き合ってくれている。
「アイス買って帰ろ?」
そういえば帰りになってもまだじっとりと汗ばむ。暑かったらアイスクリームが欲しかったんだ、と行きの道すがら思っていたことを思い出す。
律の方は吉野の欲しいものを覚えていてくれたようだった。今の律はそんなに犬っぽくはないけれど、やっぱり帰ったら、「グッドボーイ」と言って撫でてあげたくなる。
「いちばん高いやつがいいです」
吉野は大人げない我儘を口にする。
「いいよ」
律が苦笑する。
「全種類欲しい」
これは律が困るかな、と思ったけれど、「いいよ」と返してくれた。ただ返してから、「うちの冷凍庫に入るかな?」とひとりで心配している。
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