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第31話

 帰り道にあるコンビニで、ふたりで食べるには多過ぎる個数のアイスクリームを買った。吉野は本当に全種類のカップを選んだし、律も文句を言わなかった。  マンションに着くとエレベーターの五階のボタンを押して、しばし無言になる。こういうときどういう会話をするのが適切なのだろう。狭い箱の中でそんなことを考えていたら、フロアに着いた。ボディバックから律とおそろいの鍵を取り出して、吉野は部屋の扉を開けた。 「うわ、暑」  一日中閉め切っていた部屋はむっとした熱気が籠もっていた。慌てて靴を脱いで、窓を開けた。アイスクリームを冷凍庫にしまうことも忘れない。  それから「律せんせぇ、先にお風呂入っていいですよ」と言って、律を浴室に押し込んでしまう。  そうしてからずるずるとリビングの床に座り込む。 「ふわ……」  お腹の中から溢れた幸福感が、溜め息となって口から出る。一日中律を独占してしまった。こんなこと、今まで数える程しかない。その上我儘も、子供っぽい悩みも、全部聞いてくれた。  隣に置いてある紙袋を見る。中身はおそろいのマグカップだ。梱包材に包まれたそれらを取り出して並べる。ふたつは色が似ているため、半透明の梱包材の上からでは見分けがつかない。 「洗わなきゃ」  梱包材を剥ぎとったマグカップをふたつ、シンクに持って行く。律曰く、薄い桜色の釉薬がかかっている方が吉野らしいけれど、律の白っぽいグレーのカップとはよく見ないと見分けがつかない。朝急いでいたら、間違えてしまいそうだ。それでもいいのかもしれない。ふたり分の生活の境界線が曖昧でも、律となら悪くない。そう思ってから、丸くなったな、と吉野はひとりで小さく笑った。  マグカップを洗い終わって片付けをしていると、律が風呂から上がってきた。交代だ。  湯舟の中ではいろんなことを思い出した。  律に「吉野くんって脚癖悪いよね」と言われて、直した。「ピアス禁止だから」と没収されたときも、あれから返してもらっていない。律には「いらないの?」と訊かれたけれど、吉野にはもう律がいるからいらない。そもそも律と付き合っている内にピアスホールは埋まってしまった。それはまるで、今までおままごとのような恋愛をしてきた人をすべてなかったことにするようなことだった。事実、律と付き合っている間に、思い出すこともほとんどなかった。  ここ数年の性格にも服装にも、全部律が関わっている。もうとっくに境界線は曖昧になっているのかもしれない。  ピアスホールのなくなった右耳をいじりながら、もう吉野は律を知る前には戻れないし、今、無性に律が隣にいて欲しい。そう思うともうだめで、さっさと風呂から上がると、髪も乾かさずに律のところへ向かう。 「どうしたの、吉野くん?」  風呂上りの律は、今日は冷蔵庫からアルコールを取り出さず、コーヒーメーカーをセットしていた。買ってきたばかりのコーヒーを封切っている。まだ前に買ったものが残っているから、明日の朝は、半端な量同士を掛け合わせた吉野ブレンドにするしかない。 「せんせぇ、」  律のTシャツの裾を引っ張る。「なあに?」 「好きです」  本当は、ありがとうだとか、ごめんなさいだとか、もっと色々なことを伝えたかったけれど、言葉になったのはその一言だけだった。  律は一度目を瞬いてから、吉野のまだ水の滴る髪の毛をくしゃっと撫でた。 「ありがとう。僕も吉野くんが好き。だから髪乾かしておいで」  なんだかてきとうにあしらわれた気分だ。と、思っていたら、「それとも乾かしてあげようか?」と言われたので、その提案に甘んじることにした。  律の大きな手のひらが、吉野の髪の毛をかき分ける。そこにドライヤーの熱風が当たる。気持ちよくて、暖かくて、ほんの少しうとうとする。ずっとこの時間が続けばいいのに、と思っていたのに、呆気なく「吉野くん、終わり」と言われてしまった。でもまだ、足りない。 「せんせぇ、今度は僕がやってあげます」  そう言って吉野は振り返ると、律の頭に手を伸ばした。まだほんの少ししっとりしている髪の中に手を突っ込んで、くしゃくしゃにしてしまう。 「吉野くん?」  吃驚している律に、心の中で「グッドボーイ」と呟く。  頭がぐしゃぐしゃの律は格好悪くて、思わず、ふふ、と笑ってしまう。両頬を手のひらで包んで引き寄せて、吉野の好きな、律のかたちのよい額に吉野の額をこつん、と当てる。この距離だと律の睫毛まで数えられそうだ。 「大好きです、律さん」  鼻先が擦れる。すん、と鼻を鳴らすと、律のものか吉野のものか、シャンプーのにおいがした。 「よ、しのくん?」  慣れない呼び方に、律はきょとんとした。  可愛いなあ、大好き。 「これから、律さん、って呼びます」  いつまでも「先生」じゃ、おかしいかな、と思ったのと、いつまでも律に手を引いてもらっていないで、吉野も律の隣に並びたいと思ったから。  ただそれは、律には不意打ちだったらしく、耳まで真赤にして「吉野くんっ?」とかなんとか言ってくる。でも変更なんてしない。 「律さん、アイス食べたいです。あとコーヒーも」 ■了■

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