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ルカが日本を発つ前日に計画実行となって、俺は改めてオリオン座のみんなに感謝した。自分一人だったら絶対に不可能だった。学生時代からいくつかバイトをしてきたけど、オリオン座ほど楽しいバイト先はなかった。それはアットホームな人間関係に寄るところが大きかった気がする。
最終上映が終わり、誰もいなくなったオリオン座で、最初で最後の特別上映が行われようとしている。俺は期待と不安を抱えて、映写室へ入っていった。
「本条くん、待ってたよ」
小糸さんは煙草を消しながら立ち上がった。
「遅くまで残ってもらって、すみません」
「いつもとたいして変わらないよ」
と、小糸さんは笑った。
「じゃあ、準備始めるぞ。そこのリール持ってきてくれ」
俺はアルミ缶に入った丸くて重いリールを運んで、小糸さんの指示を仰ぎながら映写機にセットしていった。これまでにも小糸さんに頼まれて手伝ったことはあったけど、自主的にやりたいと申し出たのは今日が初めてだった。この作品だけは、どうしてもそうしたかったんだ。
「よし、いいよ。スタートは任せといてくれ。短い映画だから切り替えはないけど、上映後の片付けは頼んだよ」
「えっ? 小糸さんも観ていかないんですか」
支配人も高島さんも、とうに帰っている。同じ理由を小糸さんも口にした。
「二人きりにしてあげたいからな。仲良かったし、積もる話もあるだろ」
俺は複雑な顔をしていたと思う。きっと、坂井ちゃんが気をきかせて皆に何かを吹きこんだに違いない。ありがたいけど、どこまで暴露したかが怖かった。
そんなことを考えていると、当の本人がひょっこり現れた。
「つかっちゃん、ルカ来たよ。早く席に着いて」
「坂井ちゃんは、ここで観るの?」
「まさか。そんな野暮なことしません。第一私、他の映画館で観たことあるもん」
坂井ちゃんは得意気に言い、いきなり俺の肩を叩いた。
「人のこと気にしてないで、さっさと行きなさいよ、色男!」
力強い後押しを受け、ルカの待つ客席へ赴く。席は一番後ろの、ど真ん中だ。
俺は少し緊張しつつ、ルカの隣りに座った。
「夜遅くに来てくれて、ありがとう」
ルカは小さく頷いた。その表情を目にして、俺の胸が疼いた。もうこれが最後なのだと思い知らされたから。そんな気持ちを振り払うように、映写室の窓に手を挙げて合図を送る。
徐々に明かりが落とされると共に、カーテンが開き、スクリーンが顔を出す。背後では映写機が回る微かな音。そして、映像が目の前に広がった。
「これって……」
始まってすぐに、ルカはなんの映画か察したようだ。
「話は観終ってからにしよう」
俺は答え、全神経をスクリーンに集中した。俺にとっては初めて観る作品。ルカにとっては、裏切られた元恋人に薦められたものにもかかわらず、嫌いになれなかった唯一のもの。それを今、俺達は二人きりで鑑賞している。
内容は以前ルカから聞いていたとおり、人種差別や若者の失業といった社会的な問題も含まれていて、決して明るいものではなかった。それなのに、エンターテイメントとしても楽しめるし、なんといっても、主人公のオマールに対して負い目を感じていたジョニーの健気さに胸を打たれっぱなしだった。いつしかその姿をルカと重ねていた。それゆえにラストシーンは救われた気分になれ、自分でも驚いたことに、安堵の涙までこぼれた。
一時間半ほど没頭した時間が過ぎると、自動的に天井の明かりが点り、俺は慌てて頬の涙を拭った。
先に口を開いたのはルカだった。
「嬉しい。夢が叶った……」
感動醒めやらないといった声音だ。前方を見据えたまま続ける。
「司、ありがとう。こんな贅沢なこと、最高のプレゼントだよ」
「俺の方こそ。こんないい作品を教えてくれてありがとう。希望が持てるラストでよかった」
「本当に⁉ 司も、そう思ったの?」
俺が知ってる、子供のように無邪気なルカがいた。
俺達は感想を熱く語りだした。最初は純粋に、作品に対する感動と興奮からだったけど、後半は、少しでも別れを引き延ばそうとしていたのかもしれない。二人共、堰を切ったように言葉を迸らせていた。
やがて沈黙が訪れると、俺は正直に自分の気持ちを打ち明ける覚悟を決めた。ルカの名を呼び、その瞳をまっすぐみつめる。
「ごめん。俺、卑怯だった。ルカは真剣に俺と向き合おうとしてくれたのに、逃げ回ってばかりで最低だよな」
「司がそうしたくなったのは当然だよ。もう、いいから」
こんな俺に、相変わらず、ルカは優しい言葉をかけてくれる。どうしてもっと早く気づけなかったんだろう。ルカの内面の美しさに。
「俺、あれから色々悩んだんだ。それで出した結論は、やっぱり、ルカのこと好きだって思った。でも、それに身を任せて先に進んでも、この前みたいな結果にしかならないとも思う」
ルカの目が悲し気に揺れた。俺は視線をそらさず、口を動かし続ける。
「何故かっていうと、俺はまだそこまでの器じゃないから。なんたって、独り立ちもできてない甘ちゃんだしさ」
俺が自嘲すると、ルカも無理して笑ってくれる。俺は再び真剣な顔で言った。
「これから努力して一人前の男に、いや、ルカのすべてを受け入れられる男になれたって自信がついたら、イギリスに行く。もし、その時も気持ちが変わってなかったら、会ってくれるかな?」
自分勝手な望みかもしれないけど、それがこの時の本心だった。
心臓がどうにかなりそうな数秒があって、ルカは唇を噛み、決心してくれたのか、口を開いた。
「司の気持ちは、よくわかったよ」
ルカの手が、ためらいがちに俺の手を包んだ。そこから震えが伝わってきた。
「待つよ。その代わり、待てるだけのキスが欲しい。俺に触れて、目を見て、名前を呼んで……」
栗色の瞳から、澄んだ涙が流れた。
「そして、好きだって言いながらキスして……」
俺は無言で、その願いに応えた。両手で、涙を拭うようにしてルカの顔をそっと挟み、潤む瞳をみつめ、唇を近づけた。
「ルカ、好きだ……」
息が止まっても構わない。そう思えるほどの長いキスをした。それは、オリオン座でした最後のキスだった――。
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