18 / 129

第19話

 兄貴……呟くと、全身の血が沸騰するほどの怒りがぶり返す。カップに吸いさしを投げ入れて、カウンターの向こうへ険相を向けた。 「さっきの野郎は兄貴の後釜か」  荒々しく上着を羽織った拍子にキャンディの包みがこぼれ落ちる。貴重な時間を割いてまで手土産をえりすぐった俺は、まるっきり道化師だ。 「単なる常連客、波長が合ったときにやるだけの便利な関係……」  輝夜は一旦口をつぐむと、首をかしげた。 「ジョイスの弟だからといって、きみに私生活に干渉する権利があるとは思えないな」 「権利もクソもあるかよ。便利な関係、ハッ、あんたには貞操観念がねえのか」  貞操観念、と輝夜は鸚鵡返(おうむがえ)しに繰り返した。カップをすすぎ、底にへばりついた煙草の葉をつまみ取ると、噴き出した。 「残念ながら、貞操観念なんて海の中で差す傘並みに役に立たない環境で育ったよ」  笑みがかき消えて、喜怒哀楽のどれとも分類しがたい表情が取って代わる。煙草の箱を手に取ると、皺を丁寧に伸ばしながら淡々と言葉を継ぐ。 「獅子族、豹族、狼族およびイヌ族の獣人は、満月の夜になると生肉への欲求が高まる。おれは最低でも三日に一回はオトコを摂取しないと禁断症状に苦しむ。ジョイスは寛容の精神で事情を理解してくれて、彼の都合がつかないときは別口で間に合わせるのを黙認してくれていた」 「浮気公認の仲だったと、ほざきやがるのか。兄貴は高潔の士だ、ふしだらな真似なんか許しっこねえ!」  カウンター越しに身を乗り出した。はずみでストゥールがひっくり返り、脚を軸に弧を描きながら半回転した。忿怒(ふんぬ)の形相が、射干玉のように黒々とした瞳に映る。底なし沼のごとき静けさをたたえた眼差しを向けられると、なぜだか気圧されるものがあった。 「誰にも、誰かが呼吸するのを止める権利はない。理解しがたいだろうけど、おれとジョイスの間の約束事は、つまりそういうこと」  ぴしゃりと締めくくられた。ヴォルフは舌打ち交じりにストゥールを起こした。胸くそ悪い、帰ろう。いや、言い負かされて逃げたと思われるのは癪だ。突っ立ったままでいるところに今度は普通の紅茶が供されて、問わず語りに〝なれそめ〟が語られた。 「月齢十五の宵に、ジョイスと北の渓谷で出会った。薬草を摘んでいる最中に足をくじいてしまったときにね」    気のない相槌を打ち、ストゥールにどっかと腰かけた。そして目線で続きを促す。 「メタモルフォーゼ後、狩猟本能に躰を支配された肉食獣系の主に若者が、ヒトや鹿族の子どもを嚙み殺す事件がたまに起きる。風上に逃げるのが自衛手段の基本だけど動けなかった。捻挫の痛みもさることながら、耳と尻尾を除けばヒトと寸分違わぬ姿から、美しい豹の衣をまとっていく過程に魅せられて」

ともだちにシェアしよう!