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第29話

   ──ヒトで、とびぬけて綺麗なのは……。    ──スケベじじいが競り落として……。  囁きが頭蓋に忍び込み、尻尾をひと振りして追い払う。ホラ話に真実の欠けらが含まれているかもしれない、と思うことくらい馬鹿らしいことはない。 「半日つぶれちまったな。帰って、ゆうべのつづきをやるかあ」  屋上側に飛び降りた。茶房に異常がないことを確かめた以上、煮くずれた豆ではあるまいし、屋上にへばりついておく理由はない。だいたい掃き掃除しているところに行って挨拶をすれば用は足りたのだ。それが電報におびき寄せられた単細胞、と失笑を買うのが嫌なばかりにスパイを真似たごとく、こそこそ振る舞う。子どもじみた見栄を張って事、輝夜がからむと度を失うのが我ながら謎だ。  建物内の階段を使うより、外壁のデコボコを足がかりに下りるほうが早い。そう思って手すりを跨いだせつな、  ──あいつに会ってやっていってくれ。  一陣の風の音がジョイスの声に変じた。幻聴にしては、くっきりと輪郭を持つ。 「くそ……っ!」  面倒なことは、さっさとすませるに限る。自分をなだめすかして茶房へ向かい、それでいて尻尾は、はしゃぐようにぶらつく。 「いらっしゃい。来てくれて、うれしいよ」  目を丸くしたあとで、にっこり笑いかけてくる輝夜に、申し訳程度の会釈で応じた。ヴォルフはストゥールに腰かけると、上体をねじって戸口の方を向いた。 「何を飲む? 宿酔(ふつかよ)いだとか貧血気味だとか、体調に応じて茶葉を調合するのが、うちの売り物なんだ」 「苦くなきゃ、なんでもいい」  さまざまな処方を書き記したノートをめくるふうに、輝夜はシャツの袖口をまさぐった。反転すると、造りつけの棚からガラスの瓶を何本か選び取った。数種類の茶葉の分量をそれぞれ厳密に量り、小ぶりで透き通ったポットに入れると、何回かに分けて湯をそそぐ。  茶葉が螺旋を描いて踊るにつれて、湯が淡いスミレ色に染まっていく。愛の形見──輝夜は今日も、ジョイスが贈った指環に鎖を通して首から提げている。専用の網で茶殻を漉すのにともなって、生前のジョイスがそうやって触れたさまを再現するかのように、指環が喉元をすべった。  ヴォルフは視野の隅でそれらの光景を捉えていた。指環の寸法を直して薬指にはめたらどうだ、と皮肉ってやりたくなるのを口を一文字に結んで(こら)える。  薬草茶の効能書きをまとめた冊子を斜め読みする。もっとも冷え性には云々は、ちっとも頭の中に入ってこない。知らず知らずのうちに優美な立ち居振る舞いに見入っていて、紫苑の花を一輪浮かべたカップを目の前に出現して初めて、そうと気づいた。

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